日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正13年4月22日羽柴秀吉仕置条目

 

 

 一、今度至泉州表出馬、千石堀*1其外諸城同時ニ責崩、悉刎首、則至根来・雑賀押寄処、一剋も不相踏*2、北散*3段無是非候*4、然者両国至土民百姓者、悉可刎首思食*5候へ共、以寛宥儀*6、地百姓儀者依免置、至其在〻如先〻立帰候事

一、太田村*7事、今度可抽忠節旨申上、無其詮*8、剰遠里近郷*9従者*10集置、往還成妨、或者荷物奪取、或者人足等*11殺候事、言語道断次第候条、後代為懲*12、太刀刀ニ及す、男女翼類*13ニいたるまて一人も不残、水責ニて可殺*14思食、築堤、既一両日内存命依相果、在〻悪逆東*15*16奴原撰出、切首、相残平百姓其外妻子已下可助命旨、歎*17候付、秀吉あはれミ*18をなし、免置候事

一、在〻*19百姓等、自今以後弓箭・鑓・鉄炮・腰刀等令停止訖、然上者鋤・鍬等農具を嗜、可専耕作者也、仍如件、

   天正十三年卯月廿二日 (朱印)

 

 

     (充所の記載なし)

  

『秀吉文書二』1413号、160頁
 
(書き下し文)
 
 

一、このたび泉州表にいたり出馬、千石堀そのほか諸城同時に責め崩し、ことごとく首を刎ね、すなわち根来・雑賀にいたり押し寄すところ、一剋も相踏まず、逃げ散る段是非なく候、しからば両国土民百姓にいたらば、ことごとく首を刎ぬるべしと思し食しそうらえども、寛宥の儀をもって、地百姓儀は免し置くにより、その在々にいたり先々のごとく立ち帰り候こと、

一、太田村のこと、このたび忠節をぬくべき旨申し上げ、その甲斐なく、あまつさえ遠里近郷いたずら者集め置き、往還妨げをなし、あるいは荷物奪い取り、あるいは人足など殺し候こと、言語道断の次第に候条、後代のいましめとして、太刀刀に及ず、男女翼類にいたるまで一人も残さず、水責めにて殺すべしと思し食し、堤を築き、すでに一両日内に存命相果つるにより、在々悪逆東梁奴原撰び出し、首を切り、相残る平百姓そのほか妻子已下助命すべき旨、歎き候について、秀吉憐れみをなし、免し置き候こと、

一、在々百姓ら、自今以後弓箭・鑓・鉄炮・腰刀など停止せしめおわんぬ、しかるうえは鋤・鍬など農具を嗜み、耕作を専らにすべきものなり、よってくだんのごとし、

 
(大意)
 
一、このたび和泉に出陣し、千石堀城その他の諸城を同時に攻め落とし、ことごとく首を刎ね、即座に根来・雑賀に押し寄せたところ、まったく抵抗せずに逃走したことは無理もないことである。よって和泉・紀伊両国の土民百姓についてことごとく首をはねるべしとお思いになったが、寛大な心をもって地百姓は赦免するので、それぞれもとの郷村へ帰ること。
一、太田村は今回忠節を尽くすべき旨上申してきたが、それどころか遠国近国あちらこちらからならず者を集め、通行を妨げ、あるいは荷物を奪い、あるいは人足などを殺害すること言語道断の極みである。後世の戒めとして斬り殺さず、ひとりも残さず男女異類にいたるまで溺死させるべしとお思いになり、堤を築き、一両日中にも死すべきところ、悪逆非道の首謀者を差し出し、首を切り、残る平百姓妻子を助命すべき旨申し出たので、秀吉の憐憫をもって赦免すること。
一、在々百姓は以後弓矢・鑓・鉄炮・腰刀などの所持を禁ずる。したがって鋤・鍬などの農具に親しみ、耕作に専念すべきこと。以上。
 
 

 

まず気づくのは自身に対して「思食」と自敬表現を用いたり、「寛宥の儀をもって」、「秀吉憐れみをなし」など撫民的表現が見られる点である。自身が天下人たるにふさわしいと確信したのだろう。自軍が圧倒的優位に戦ってきたことを述べる冒頭部分もいやらしい自信に満ちあふれている。

 

一条目では「土民百姓」=「地百姓」は赦免するのでそれぞれ帰村するように促している。

 

二条目では太田城に立て籠もった者たちは、みな城ごと水没させて人畜問わず溺死させるべきところ、首謀者の首を差し出し、「平百姓」とその妻子を助命して欲しいと歎願してきたのでそのようにすると述べている。なおこの記述から籠城した者に妻子が含まれていたことがうかがえる。一条目とあわせて、有力な在地土豪を排し、「地百姓」=「平百姓」のみからなる水平的な郷村の創出を企図したものといえよう。首を刎ねられた者は53名を数え、その妻たち23名が磔刑に処せられたという*20

 

三条目は百姓の武装や帯刀を禁じ、農具に親しみ農耕に専念せよと説くもので、のちの刀狩令の先駆的条文である。

 

以上の諸点から本文書は豊臣政権確立諸段階の一画期をなすものと位置づけられる。

 

一方イエズス会宣教師のルイス・フロイスは紀伊国について以下のように報告している。

 

 

堺の位置に接した和泉と称する小国があり、今日まで信長及びその継嗣に属していた。つぎに紀の国と称する他の国があり、ことごとく悪魔*21を尊崇する宗教に献ぜられていた*22。この国に四、五の宗派があり、おのおの一大共和国のごときもので、宗旨の古いため同国はつねに不可侵で、戦争によってほろぼすことあたわず、多数の巡礼が絶えず同地に赴いている。

この宗派または共和国のひとつは、高野と称し坊主約四、五千人が同所に居住している。

 

1585年10月1日付(天正13年閏8月8日)イエズス会総会長宛パードレ・ルイス・フロイス書翰、引用は『和歌山市史 第四巻』1222頁。句読点や旧仮名遣いは読みやすく多少改め、固有名詞に付されたローマ字は省略した。また註は引用者が施した。

 

 

 

 

なお、太田城の水没過程をシミュレートした和歌山大学紀州経済史文化史研究所の動画がわかりやすいので参照されたい。また本文書の写真も掲出されている。

 

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*1:和泉国泉/南郡。雑賀衆の出城

*2:少しも踏みとどまることなく

*3:ニゲチル

*4:当然のことである

*5:オボシメシ、お思いになる。秀吉自身への敬意を表している

*6:寛大な心をもって許すこと

*7:紀伊国名草郡、雑賀衆の根拠地太田城

*8:カイ、甲斐

*9:あちらこちらから

*10:イタズラモノ。ならず者の意で、その実態は「牢人」など傭兵であろう

*11:「中間」以下の非戦闘員

*12:イマシメ

*13:異類カ

*14:溺死させる

*15:

*16:首謀者、首領

*17:懇願する

*18:憐れみ

*19:郷村、村々

*20:『大日本史料』第11編26冊、437~438頁 https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1126/supple/0438?m=all&s=0436&n=20

*21:イエズス会の立場からの呼称

*22:燈油料