日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正13年7月6日中川秀政外宛羽柴秀吉朱印状

 

 

 態申遣候、

一、秀吉出馬事、先書*1如申遣、外聞候条、可遠慮*2候由、度々依申越相延候、何時成共、自其方一左右*3次第ニ可渡海候、木津城*4落去候国中城々明退、長曽我部*5居城*6取巻候者、五日之逗留*7にて秀吉出馬可申付候事、

一、多人数にて一城取巻候之事、如何候間、一宮*8取巻可申候、但各相談候て、見計可申付事、

一、木津城請手并一宮之請手之事、別紙*9ニ書付遣候、其元様子為可聞届、森兵吉*10差遣候間、美濃守*11相談候て、無越度様ニ肝要候也、 

    七月六日*12                         秀吉(朱印)

     中川藤兵衛尉殿*13

     古田左介殿*14

『秀吉文書集二』1483号、179~180頁
 
(書き下し文)
 

 わざわざ申し遣わし候、

一、秀吉出馬のこと、先書申し遣わすごとく、外聞候条、遠慮すべく候よし、たびたび申し越すにより相延び候、なんどきなるとも、そのほうより一左右次第に渡海すべく候、木津城落去候て国中城々明き退き、長曽我部居城取り巻きそうらわば、五日の逗留にて秀吉出馬申し付くべく候こと、

一、多人数にて一城取巻候のこと、いかがに候あいだ、一宮取り巻き申すべく候、ただしおのおの相談じ候て、見計らい申し付くべきこと、

一、木津城請手ならびに一宮の請手のこと、別紙に書き付け遣わし候、そこもと様子聞き届くべきため、森兵吉差し遣わし候あいだ、美濃守相談じ候て、越度なきように肝要候なり、 

 
(大意)
 

 書面をもって申し入れます。

一、秀吉出陣について、先日の書面通り、「外聞」にかかわるのでことわるとたびたび申しているので延引しています。しかしいつでも、知らせがあり次第渡海できるよう準備は整っています。木津城が落城し、阿波国の城という城の兵たちが城を捨て、元親の居城を包囲したなら、その五日の後秀吉みずから出馬します。

一、多くの軍勢で一つの城を包囲するのはいかがなものかと思いますので、一宮城も二手に分かれて包囲するようにしてください。ただし、それぞれよく話し合って臨機応変に命じてください。

一、木津城および一宮城の受け取り手について、別紙書面を送りました。そなたたちの様子をうかがうため森吉政を遣わしましたので、秀長とよく相談の上、過ちのないようにすることが重要です。

 

 

 

 Fig. 阿波国木津城・一宮城と淡路国福良 

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                   『日本歴史地名大系』徳島県より作成



 「先書」、「別紙」でも秀長が「外聞」を理由に秀吉の出陣をたびたび拒否したとある。「外聞」は世間体や評判、名誉という意味で「外聞実儀」(名誉と実益)といったかたちで多用される文言である。ただし、秀吉は多くの家臣に「秀長が外聞にこだわって出陣を拒否している」旨伝えているので「秘密」というニュアンスはなさそうだ*15

 

秀長は秀吉みずから出馬しては面目が立たないと考えていた。それは和泉・紀伊二ヶ国の大大名としてふさわしい働き、つまりノブレスオブリージュを果たそうとすることである。二ヶ国を5月に与えられたばかりであり、当然の務めだった。

 

また一つの城に大軍を投入するのは非効率であるとも述べていて、「計算高い」秀吉らしい。戦術面で指示を出しつつ、戦場の状況に応じてよく相談し柔軟に対応するよう書き送っていることから、ある程度の裁量を家臣たちに与えていたようで、彼らが自立的存在だった可能性もある。必ずしも絶対的上意下達というわけではなかった。武家の自立性が奪われ次第に官僚化していく過程を武家の近世化(戦士から治者へ)と見ることもできる。 こうした変化は数世紀単位の長いスパンでなければ捉えられない。ある時代をしばしば「長い16世紀」のように呼ぶのはこのためである。赤穂浪士の討ち入りは「徳川の平和」(Pax Tokugawana)*16の世になってから1世紀のちの出来事であり、こうした中世的な自力救済行為は幕府の禁令にもかかわらずあちらこちらで見られた*17。これは武家に限らない。百姓同士でもしばしば「山問答」、「水問答」*18といった「喧嘩」*19が起きていることは多くの史料が物語るところである。

 

 いささか先走るが、 蜂須賀家政は阿波各地で百姓たちの抵抗に悩まされることになる。秀吉による「平和」=「惣無事」とは何かを考える上でそうした点も考慮すべきだろう。

 

*1:7月3日中川外宛朱印状、1481号

*2:相手の申し出をことわる

*3:イッソウ、たより

*4:阿波国板野郡、図参照

*5:元親

*6:土佐国長岡郡岡豊城、オコウ

*7:とどまる時間、猶予

*8:阿波国名東郡、図参照

*9:同日日根野弘就外10名と長浜衆宛朱印状、1484号

*10:吉政

*11:羽柴秀長

*12:天正13年

*13:秀政

*14:重然、織部で知られる

*15:1481号、1482号、1484号

*16:「ローマの平和」に倣った表現でさまざまな含意が籠められている

*17:このブログで何度も言及してきたが「斬り棄て御免」は俗説である。幕府はこれを「私闘」として禁じているし、戦国大名の分国法でも同様の記述が見られる

*18:入会地の縄張り争いと用水相論

*19:実態は、武装し徒党を組んでいるので合戦に近い