日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正13年6月8日前田玄以宛羽柴秀吉朱印状

 

 

態申遣候、仍高野山寺領之儀、嵯峨天皇弘法大師任御誓約之御手印之旨、弥不可有相違旨申付、并為新寄進、宇智*1・伊都*2於両郡参千石遣候、然者為後代候之条、被成下(闕字)御綸旨*3尤候、今度南方*4平均申付候刻、彼寺之置目*5相定候条、其子細者、連年乱世、又者悪逆之徒党対*6武具、猥之躰*7候之間、自今以後兵具等悉令停止、偏国家*8安全之懇祈*9可専仏事勤行之旨、満山一同以血判誓紙出置候、即案文*10上候、於様子者木食上人*11可為演説*12候、此等之趣可被奏達*13之旨、菊亭*14迄可被申候、謹言、

   六月八日*15                        秀吉(朱印)

     民部卿法印*16

 

『秀吉文書二』1452号、170頁
 
(書き下し文)
 
わざわざ申し遣わし候、よって高野山寺領の儀、嵯峨天皇・弘法大師御誓約の御手印の旨に任せ、いよいよ相違あるべからざる旨申し付け、ならびに新寄進として、宇智・伊都両郡において参千石遣わし候、しからば後代のため候の条、御綸旨なしくだされもっともに候、このたび南方平均申し付け候きざみ、彼の寺の置目相定め候条、その子細は、連年乱世、または悪逆の徒党武具を帯し、みだりのてい候のあいだ、自今以後兵具などことごとく停止せしめ、ひとえに国家安全の懇祈仏事勤行を専らにすべきの旨、満山一同血判をもって誓紙出だし置き候、すなわち案文上げ候、様子においては木食上人演説たるべく候、これらの趣奏達せらるべきの旨、菊亭まで申さるべく候、謹言、
 
(大意)
 
書面をもって申し入れます。高野山寺領について嵯峨天皇・弘法大師が誓約した手印の趣旨通り、相違ないよう申し付け、また新たに寄進地として宇智・伊都両郡から三千石を与えるつもりです。後世のため正親町天皇より綸旨をくだされるとのこと、実にもっともなことです。このたびの四国平定を命じた際に高野山の掟を定めました。その詳細は、乱世が続き、また徒党を組み武装し、勝手気ままに振る舞っているので、今後武装することを禁じ、ただただ国家の安寧を祈祷し、仏事勤行のみに専心する旨、高野山一同血判の誓紙を差し出すということです。すぐさま案文を高野山へ遣わしましたが、状況によっては木食応其に口頭で説得させます。以上の件奏上するつもりである旨菊亭晴季にお伝えください。謹言。
 

 

 

長宗我部攻めについて綸旨が下されることになった。ここで重要なのは充所の前田玄以と精華家である菊亭晴季のコネクションである。信長の所司代村井貞勝と公家の交流は大納言どまりの「羽林家」、「名家」だったが、玄以はそれより上級の公家と接触していたことが本文書から確認できる*17

 

 さてこの「御綸旨」つまり正親町天皇綸旨が次の「参考史料」である。

 

 

[参考史料]

 

 (包紙ウハ書)

「金剛峯寺                  左中将慶親*18

 

当山寺領事、嵯峨天皇并弘法大師被任御手印旨、不可有相違、然者今度至于南方、内相府*19被馳向、朝敵之残党則時被加誅伐、天下属静謐、就中為宝祚*20延長国家安全、於和州宇智郡・紀州伊都郡三千石新寄附之趣、被聞食畢、叡忠*21古今無比類者也、弥全寺納、猶以可抽懇祈之旨、天気*22所候也、仍執達如件*23

  天正十三年六月十一日               左中将(花押)

   金剛峯寺

 

『大日本史料』第11編16冊、101~102頁

 

(書き下し文)

 

 (包紙ウハ書)

「金剛峯寺                  左中将慶親」

 

当山寺領のこと、嵯峨天皇ならびに弘法大師御手印の旨に任され、相違あるべからず、しからば今度南方にいたり、内相府馳せ向かわれ、朝敵の残党則時誅伐を加えられ、天下静謐に属し、なかんずく宝祚延長・国家安全のため、和州宇智郡・紀州伊都郡において三千石新寄附の趣、聞し食されおわんぬ、叡忠古今比類なきものなり、いよいよまったく寺納、なおもって懇祈をぬくべきの旨、天気候ところなり、よって執達くだんのごとし、

 

 

 

Fig.大和国宇智郡および紀伊国伊都郡周辺図

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                   『日本歴史地名大系』奈良県より作成

 

3月22日、秀吉の紀州攻めにあたり戦勝祈願せよとの綸旨が下されているが、6月11日では「朝敵の残党」と呼んでいる点でより踏み込んだ表現となっている。

 

天下を静謐にするため秀吉軍が天皇への忠節を尽くし、しかもその忠節は「古今比類なきもの」と歯の浮くような絶賛ぶりである。玄以・晴季ルートによる秀吉の正親町天皇への根回しが功を奏したものと疑いたくなる。 それはともかく、秀吉は政権の正統性をこのころ確実なものとしていた。

 

秀吉が近衛前久の猶子となり、藤原秀吉として関白に任ぜられる1ヶ月前の出来事である。

 

*1:大和国、図参照

*2:紀伊国、図参照

*3:参考史料参照

*4:南海道のうちの四国と淡路。2020年10月2日追記

*5:6月13日「金剛峯寺宛覚」、1465号文書

*6:帯カ

*7:勝手気ままなさま、無秩序なさま

*8:天皇および天皇を頂点とする秩序

*9:コンキ、念入りな祈祷

*10:アンモン。誓紙の草案、雛形

*11:応其

*12:文書で申し入れず口頭で述べること

*13:天皇へ奏上すること

*14:今出川晴季、7月11日の秀吉関白就任を斡旋した公家。菊亭家=今出川家は近衛大将を経て太政大臣まで昇進できる精華家のひとつ。摂政・関白を世襲する摂家につぐ名門

*15:天正13年

*16:前田玄以

*17:関口崇史「前田玄以」、日本史史料研究会編『戦国僧侶列伝』所収、星海社新書、2018年

*18:中山

*19:内大臣の唐名、秀吉

*20:天皇の位

*21:天皇に対する忠節

*22:天皇の意向

*23:「以上が正親町天皇の意向である」の意