触書
去辰*1三月被仰付一揆帳*2、弐百四拾人鑓、百七十余張弓、三*3百人弓にても、鑓にても、鉄砲にても存分次第*4、有是者可持出、其以後増減可有之、先以先年之如本帳、弓・鑓・小旌*5支度之儀、早〻可申触候、重而*6御下知*7等儀ハ可被仰付事、
一、小旗*8大小者、能様ニ相計可申付、先年一様ニしろく*9いたし候間、見にくゝ候*10、似合〻〻*11ニすみ*12にても、朱にても紋を可出候、
一、鑓・竹にても、木にてもくるしからず、二間*13よりみじかき*14は見にくゝ*15候、二重し*16で迄一本事、
一、万一先年之帳面*17に不足*18之子細有之者、早〻其道理を可申上事、
以上
仁杉伊賀守*22
白井加賀守*23
(『神奈川県史 資料編』3、9600号文書)(書き下し文)触書
去る辰三月仰せ付けらるる一揆帳、弐百四拾人鑓、百七十余張り弓、六百人弓にても、鑓にても、鉄砲にても存分次第、これある者持ち出すべし、それ以後増減これあるべし、まずもって先年の本帳のごとく、弓・鑓・小旌支度の儀、早〻申し触れべく候、かさねて御日限などの儀は仰せ付けらるべきこと、
一、小旗大小は、よきように相計らい申し付くべし、先年一様に白く致し候あいだ、見にくゝ候、似合〻〻に墨にても、朱にても紋を出だすべく候、
一、鑓・竹にても、木にても苦しからず、二間より短きは見にくゝ候、二重しでまで一本のこと、
一、万一先年の帳面に不足の子細これあらば、早〻その道理を申し上ぐべきこと、
以上
(大意)お触れ天正8年3月に仰せられた一揆帳、240人鑓、170余張り弓、合わせて600人弓でも、鑓でも、鉄砲でもよいので各自の思い思いに武器を持参するように。天正8年に改めて以降増減もあることだろうが、とりあえず先年の本帳の記載通り弓・鑓・小旌を用意することを早々に申し触れるように。日限などの件は追って伝える。
一、小旗大小は各自似合うように取り計らいを命じるように。先年は皆一様に白い旗ばかりで判別しにくかったので、それぞれ墨でも朱でもいいので紋を明確にするように。
一、鑓は竹でも木でもそれは問わない。二間より短いものはよろしくないので、2本を合わせて一本と数える。
一、万一先年の帳面に不満があれば早々にその旨を上申すること。
以上
東浦が具体的に示す地域は時期により変動するが、おおむね下図の周辺と見てよい。
図1. 伊豆国東浦周辺図
まず指摘できるのは後北条領国内における触の伝達ルートが確立されていたことである。「東浦笠原触」が具体的に意味するところは判然としないが伝達単位であることを想起させ、また「弓・鑓・小旌支度の儀、早〻申し触れべく候」という文言も伝達ルートの存在抜きに解することは難しいであろう。郡編成などでも独自性を発揮していた後北条氏であることから、こうした在地支配にかなり習熟していたことは想像に難くない。
仁杉幸通は「小田原衆所領役帳」または「北条氏所領役帳」で「伊豆衆」として知行地が与えられており北条氏の直臣である。「小旗大小は、よきように相計らい申し付くべし」との文言からも「相計らうよう」に命ずる身分にあったと推察できる。
すでに天正8年に郷村から総動員できるように「一揆帳」なるものを作成していたことも在地支配が確かなものだったことを物語る。ここでいう「一揆」は「揆を一にする」意から一致団結することという本来の意味だろう。
さて秀吉軍が迫るなか後北条氏が郷村百姓に総動員をかけたことは明らかである。これは在地支配の貫徹性を物語ると同時に軍事的に圧倒的に劣ることを示してもいる。一応論功行賞が可能なように旗印を鮮明にせよと命じるものの、2間より短い鑓の場合は複数本で1本と数えるなど危機的状況はかなり切迫している。それでも軍事的に劣勢に立たされていることを意識しているぶんだけ情勢を把握していることは間違いない。
清水克行『戦国大名と分国法』は「法治主義」に代表される公的権力の成立は軍事判断の足かせとなったと指摘している*24。「御国法」*25による領国支配を行っていた後北条氏もこの例も漏れない。神格化されている信長や秀吉の圧倒的軍事力が覇権を握ったことは、その後の日本社会に大きく影響したに相違ない。
*1:天正8年
*2:未詳、著到状のようなものか。天正8年3月武田勝頼と北条氏政が伊豆で武力衝突した。この時近隣の百姓が逃散したことが確認できる
*3:桑原藤泰『駿河記 下巻』462頁は「六」とする。以下これにしたがう
*4:思い思いに
*5:はた
*6:追って
*7:「日限」の誤りカ
*8:旗指物。家の紋を記す
*9:白く
*10:旗印が遠目にも明らかでないと論功行賞が出来ないためであろうか
*11:それぞれの分限に応じた。ここに身分制社会の原理を見ることも可能である
*12:墨
*13:約3.6メートル
*14:短き
*15:見た目がよくない
*16:かさねし、加える
*17:一揆帳
*18:不満や不平
*19:天正18年。グレゴリオ暦1590年3月22日、ユリウス暦同年同月12日
*20:伊豆国賀茂郡の地域、下図参照
*21:北条氏所領役帳に「伊豆衆」筆頭に名前が見える笠原綱信かその子孫。伊豆北部の郡代で先祖は評定衆も務めていた。相模国西郡・中郡、伊豆で447貫文余を知行する
*22:幸通。「伊豆衆4人」の一人で60貫文を知行する
*23:未詳
*24:岩波新書、202頁、2018年
*25:明文化されていないが。ただ前近代の法は基本的に民衆には秘匿扱いされていたので権力による恣意的運用は可能である