こちらのつづきを読んでみる。
japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com
□(一、)五段田へ取申候長福寺同宿の脇指、来廿日ゟ内ニ走舞を以而可返迄候、然者脇指取候者之内一人、当月廿五日ゟ被召失、来亥才二月廿五日ニ可被召返候事、
(書き下し文)
□(ひとつ、)五段田へ取り申し候長福寺同宿の脇指、来たる二十日よりうちに走り舞いをもって返すべきまで候、しからば脇指取り候者のうちひとり、当月二十五日より召し失せられ、来たる亥の才二月二十五日に召し返されるべく候こと、
*長福寺:現万寿寺(三重県伊賀市柘植町)
位置関係は以下の通り。
Google マップより作成
*走舞:奔走、尽力
*来亥才:天正3年
*同宿:同僚の僧
*召返:もとに返す
(大意)
ひとつ、五段田村側が奪い取った長福寺の僧侶の脇指について、尽力した結果今度の二十日以前に返すべきと決した。そのうえで脇指を奪い取った者のうちひとりが、当月二十五日から逃亡し、天正3年2月25日までに村に戻るようにすること。
ここで山に入った上柘植村の者の脇指を、五段田村側が奪い取っている。藤木久志氏によればこういう行為を「鎌を取る」と呼び、中世社会に広く見られた習俗であるという。
ちなみに藤木門下生の一人が清水克行氏である。
またここから中世末期の村人が帯刀していたこともわかる。刀狩後の近世でも在村鉄炮と呼ばれる鉄炮が見られた。しかしそれらは農作物を荒らす獣害に対抗して威嚇のため使用される、武器ではなく、農具としての鉄炮であった。