去月七日返礼到来遂披見候、仍会津*1与伊達*2累年鉾楯由候、①天下*3静謐*4処不謂*5題目*6候、早〻無事*7段馳走肝心候、②境目等事任当知行*8可然*9候、③双方自然存分於在之者、依返事可差越使者候、不斗*10富士可一見候条、委曲期其節候也、
四月十九日*11 (花押)
佐竹左京大夫殿*12
(三、1875号)(書き下し文)去月七日返礼到来し披見を遂げ候、よって会津と伊達累年鉾楯のよしに候、①天下静謐のところ謂われざる題目に候、早〻無事の段馳走肝心に候、②境目などのこと当知行に任せ然るべく候、③双方自然存分これあるにおいては、返事により使者を差し越すべく候、ふと富士一見すべく候条、委曲その節を期し候なり、(大意)三月七日付の返書拝見しました。芦名と伊達が長年にわたって合戦をしているとのこと。①天下太平の今日実に正当な理由のないことです。早期に講和するよう奔走することが重要です。②国郡の境目については「当知行」の原則にしたがい適切に定めなさい。③双方に申し分があるのなら、返事の内容如何で使者を派遣します。富士山でも見たくなりましたので、詳しくはその時にでも。
本文書は常陸国久慈郡太田城主佐竹義重にあてた判物である。朱印と異なり花押を据えた判物は厚礼である(下図2参照)。内容は会津の芦名氏と米沢の伊達氏が長年にわたって「謂われざる題目」によって「天下静謐」を脅かしているので早々にやめるよう、芦名氏の縁者である佐竹氏に要請したものである。
Fig.1 陸奥国会津郡・伊達郡と出羽国米沢城周辺図
Fig.2 判物と朱印状の使い分け
註:上図の「豊臣氏譜代」という不用意な表現について。「譜代」はもともと「系図」や「系譜」を意味していたが、その後「代々同じ主家に仕える者」という意味になった。今でも奉公人や主家に所属する農民を「譜代」と呼ぶ地方もある。さらに現在のように「よそ者」を「外様」と呼ぶのに対して「譜代」というが、ここではその意味で使用している。そもそも秀吉は一代で上りつめたので「代々豊臣家に仕えた」ということはありえない。
①では秀吉の許可ない戦争は「私戦」として禁じ、②で国郡の境目は信長と同様「当知行」の通り現状維持とするとしている。③ではそれでも双方に言い分があるのなら使者を派遣するとしており、この使者を派遣するというのは秀吉が境界の裁定者であるということを意味する。当知行を認めつつも、機会があれば土地所有権を一元化しようとする秀吉の思惑が見え隠れする文書である。
*1:黒川城主芦名盛重、常陸太田城主佐竹義重の次男
*2:出羽米沢城主伊達政宗
*3:もともとは「天命」を帯びた天の子である「天子」が「天」の「下」を統治するという考え方を示す語だったが、のち政治用語としてさまざまな意味で使われるようになった。ここでは漠然とした「世の中」、「世間」程度の意
*4:静かで落ち着いていること、平和なこと。「日葡辞書」には「天下、今静謐にござる」との用例が見える。もちろん九州攻めを控えていた当時、実際に「天下静謐」の状態にあったわけではなく秀吉一流のレトリックである
*5:無用の
*6:取り上げるべき事柄。「謂われざる題目」で「正当の理由もなく」の意
*7:平和。全国規模の「無事」は「惣無事」
*8:現実に支配=知行している土地。御成敗式目第8条に「御下文(将軍家政所下文)を帯すといえども知行せしめずして年序を経る所領のこと」として「当知行ののち廿ヶ年を過ぎるは右大将家(源頼朝)の例に任せて理非を論ぜず改替(没収する)にあたわず」とあり、押領した土地でも20年経てばもとの持ち主の権利が消滅する時効となる
*9:適切に、適当に
*10:フト。ちょっとした思いつきをあらわす言葉
*11:天正14年
*12:義重