日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正13年4月5日生駒(甚介カ)宛羽柴秀吉朱印状

 

 

此表為音信、書状并道服*1一・熨斗鮑*2千本到来、祝着候、随両国*3事、無残所任平均*4候、然者雑賀一揆原*5逃後、紛味方路次之成妨者、所〻在之条、向後為懲*6候間、築堤水責*7ニさせ、一人も不漏可責殺*8調儀候、二三日之中ニ可落居候、尚委細細井*9可申候、謹言、

    卯月五日*10                           秀吉(朱印)

  生駒□□□*11

 

『秀吉文書集二』1391号、155頁
 
(書き下し文)
 
このおもて音信として、書状ならびに道服一・熨斗鮑千本到来し、祝着に候、したがって両国のこと、残るところなく平均に任せ候、しからば雑賀一揆ばら逃げ後れ、味方に紛れ路次の妨げなる者、所々これあるの条、向後懲らしめ候あいだ、堤を築き水責にさせ、一人も漏らさず責め殺すべき調儀に候、二三日のうちに落居すべく候、なお委細細井申すべく候、謹言、
 
(大意)
 
音信として書状、道服一つと熨斗鮑千本をお送り下さり実に満足しています。和泉・紀伊両国は残るところなく平定しました。逃げ遅れた雑賀一揆の者たちが味方に紛れ通行の妨げになる者があちこちにいるとのこと。今後は懲らしめるので堤を築き水攻めにして、一人も残らず地獄の責め苦を味合わせて殺すつもりでおります。 二三日中には落城するでしょう。詳細は細井方成が申し伝えます。謹言。
 

 

紀伊太田城を兵粮攻めから水攻めに方針転換したことを、生駒親正に伝えた朱印状であるが、書止文言が「謹言」であるなどところどころ書状のような言い回しも見られる。「秀吉(朱印)」の形式をとっているが、これはのち朱印のみに薄礼化する。

 

雑賀一揆衆の中から逃亡者が相次ぎ、味方に紛れて通行の妨げになっているので「一人も漏らさず責め殺すべき」と述べ、単に殺戮するのみならず、死ぬまで責め苦を与えるべしと、雑賀衆への秀吉の偽らざる心境を物語っている。

  

*1:公卿や大納言以上が着る上衣

*2:ノシアワビ。鮑の肉を薄くはぎ、引きのばして乾かしたもの。進物などに添えて贈った

*3:和泉・紀伊

*4:平らげる

*5:バラ、人をあらわす名詞の接尾辞で複数を表す。「殿原」を除きおもに相手を蔑むときに使う。e.g.「奴原」など

*6:コラシメ。「為」は使役の助動詞「しむ」で「為替」も「カワシ」→「カワセ」と返って読む

*7:現在では「水責め」といえば拷問を指し、城攻めの場合は「水攻め」をあてる。ここではもちろん後者のこと。「水攻め」には城内の水源を断つものと人工的に洪水を起こし城を孤立させるものの二つがある。一方前者の水責めは古今東西もっともポピュラーな拷問方法のひとつである

*8:責め苦を加えて殺す。「日葡辞書」

*9:方成、豊臣政権初期の奉行

*10:天正13年

*11:甚介殿カ。親正。当初に信長に、のち秀吉に仕える