日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正13年6月15日宇都宮国綱宛羽柴秀吉書状

 

 

去五月四日書状、今日十五至于大坂到来、令披見候、抑*1去年少〻申事在之刻、紀州根来・雑賀催一揆企慮外働条、去三月出馬、五三日中ニ諸城責崩、凶徒依刎首候、泉州・紀州熊野浦*2迄平均申付候、同四国長曽我部*3彼悪逆人令同意付、為成敗拙弟秀長*4并毛利右馬頭*5申付、四国へ乱入、過半任存分候、近日可刎首事案之内*6候、さ様ニ候へハ、西国筑紫鎮西*7迄不残任覚悟隙明候条、来月廿日比*8ニ北国*9乍見物、秀吉*10発足*11候、越中佐々内蔵助*12企悪逆候条、先手者ニ申付可成敗候、連年富士山一見之望*13候間、其砌可遂初面候、其表事、今少間気遣*14尤候、何之道にも*15国綱*16事令馳走*17、可任存分候条、可心易候、早速人数入儀候者、景勝*18へ可被申候、自此方堅申合候、委細含口上候、謹言、

    六月十五日*19                     秀吉(花押)

       宇都宮殿*20

『秀吉文書集二』1457号、171頁
 
 
(書き下し文)
 
 
去る五月四日書状、今日十五大坂にいたり到来、披見せしめ候、そもそも去年少〻申すことこれあるきざみ、紀州根来・雑賀一揆を催し慮外の働きを企つるの条、去る三月出馬、五三日中に諸城責め崩し、凶徒首を刎ね候により、泉州・紀州熊野浦まで平均申し付け候、同じく四国長曽我部彼の悪逆人と同意せしむるについて、成敗のため拙弟秀長ならびに毛利右馬頭申し付け、四国へ乱入、過半存分に任せ候、近日首を刎ぬるべきこと案の内に候、さようにそうらえば、西国筑紫鎮西まで残らず覚悟に任せ隙明候条、来月廿日ごろに北国見物ながら、秀吉発足せしめ候、越中佐々内蔵助悪逆を企て候条、先手者に申し付け成敗すべく候、連年富士山一見の望みに候あいだ、そのみぎり初面を遂ぐべく候、その表のこと、今少しのあいだ気遣いもっともに候、いずれの道にも国綱こと馳走せしめ、存分に任すべく候条、心易んずべく候、早速人数入る儀そうらわば、景勝へ申さるべく候、此方より堅く申し合わせ候、委細口上に含め候、謹言、
 
 
(大意)
 
 去る五月四日付の書状、本日十五日に大坂に到着しましたので拝見しました。さて、昨年少々お話しすべきことがございましたが、紀州の根来衆・雑賀衆が一揆を催し思いのほかの振る舞いをするので、三月に出馬し、数日中に彼らの根拠地の城を攻め滅ぼし、やつらの首を刎ねることで和泉・紀伊の熊野浦まで平らげました。また四国の長宗我部は根来・雑賀と同盟を結びましたので、成敗のため弟秀長および毛利輝元を派兵し、四国へ攻め入り、過半を平らげました。長曽我部の首を刎ねるのもまもなくです。そういった状況ですので、九州まで征服したのち手が空くでしょうから、来月二十日ごろには北陸見物がてら出馬するつもりです。越中の佐々成政が抵抗しているので、先手組に出陣を命ずるつもりです。長年富士山を一目見たいと願っておりましたので、その節にでもお目にかかりたいと存じます。東国の状況さぞご心配のことと存じます。いずれにしても国綱を守り、東国を制圧しますのでご安心ください。すぐに軍勢が必要でしたら上杉景勝にお申し出ください。その旨こちらより景勝へよくよく言い聞かせます。詳しくは使者に申し含めました。謹言。
 
 
 

 

Fig.紀伊国牟婁郡、熊野周辺図

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                   『国史大辞典』「紀伊国」より作成

 同日付で、ほぼ同内容の書状を常陸の佐竹義重*21、水谷勝俊*22に書き送っている。これらはいずれも花押が据えられていて丁重であるのに対して*23、やはり15日付の白樫左衛門尉宛朱印状*24や翌16日付木食応其宛朱印状*25は書出や書止文言が断定調でいかにも下達文書であり好対照をなす*26。また、17日付の秀吉家臣高山右近*27・中川秀政*28両名宛朱印状*29は「謹言」で止め、「袖」*30に「追而書」*31が書かれるといった書状的様式を残しており、相手の格による秀吉なりの書札礼*32が確立しつつあったようだ。

 

したがってこの時点では宇都宮氏や佐竹氏と秀吉は武家的には対等な関係にあった。もちろん官位の上では大きな差があるが。また、水谷氏はやや格下とされていたようである。重要なのは秀吉の本音はともかく、宇都宮氏らが服属・臣従したわけではなく、同盟関係にあったということである。

 

本文書では四国攻めを秀長らにまかせ、九州攻略も視野に入れつつ、北陸道経由で東国に攻め入る予定なので、小田原北条氏に対して今少し耐えてほしい旨したためている。また援軍が必要なら景勝に申し出るようにとも。

 

正直なところかなり冗長であるとの印象を拭いきれないが、これが丁重な書状である。現代の手紙の作法にも受け継がれているが、デジタル化の波に押されてたとえば「拝啓 小春*33の候ますます…」のような季節感の感じられる文面は「時下ますます…」のような365日使い回しの利く味気ないものにかわってしまった。雛型をあらかじめ用意するなら、月ごとに時候の挨拶を自動で出すくらいのスマートな(気の利く)機能が欲しいものである。

 

 

*1:ソモソモ、「さて」の意

*2:紀伊国牟婁郡、紀伊半島南部。牟婁郡はのち分割され、現在熊野川を境に南部が和歌山県に、北部が三重県に属している。図参照

*3:元親

*4:羽柴

*5:輝元

*6:当然のこと、予定通り

*7:「西国」=西海道の国々、「筑紫」、「鎮西」いずれも九州を意味する語。同じ意味の言葉を重ねることで次の九州攻めを強く示唆している

*8:「頃」

*9:ホッコク、北陸道の国々。「キタグニ」と読むと意味が異なってしまう

*10:「令」脱カ

*11:「日葡辞書」では「ホッソク」、「ハッソク」の双方を立項した上で後者の方が勝るとしている。戦争などに出発すること

*12:成政

*13:一目見たいとの長年の願い

*14:心配

*15:どのみち、結局

*16:宇都宮、下野国河内郡宇都宮城主

*17:世話をすること、面倒を見ること。ここでは軍事的に庇護すること

*18:上杉

*19:天正13年

*20:国綱

*21:常陸国久慈郡太田城主、1458号

*22:同新治郡下館城主、1460号

*23:より正確にいえば国綱宛、義重宛がいずれも「謹言」で終えているのに対して、勝俊宛は「心易んずべく候なり」で終え全体的にも略式である

*24:1459号

*25:1461号

*26:朱印は花押より格下である

*27:摂津国島上郡高槻城主

*28:同島下郡茨木城主

*29:1462号

*30:古文書学用語で文書の書き始めに空ける余白。武家文書で文書の先頭に据えられている花押を「袖判」という。「袖」の反対を「奥」という

*31:「尚々書」ともいう。追伸にあたる

*32:文書の書き方に関する作法

*33:陰暦10月のこと