日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正13年6月20日羽柴秀長宛羽柴秀吉朱印状

 

 

    尚以土佐一国にて候ハヽ、長曽我部*1可指置候、委細甚右衛門尉*2・三郎四郎*3ニ申含候、已上、
 書状并蜂須賀*4其方への書中*5、遂披見候、

一、長曽我部事、最前申出候つるハ、土佐一国・伊与国、只今長曽我部かたへ進退之分にて、毛利*6方・小早川*7方へ安国寺*8を以令相談、尤之内存*9ニ候ハヽ、右之通ニ可宥免申聞候処、聞違候て、安国寺此方へ罷上、伊与円二*10不給候者外聞*11迷惑*12候由、小早川申由候条、与州円ニ小早川ニ遣候、然間土佐一国にて侘言*13申候者可指置候、委細尾藤甚右衛門尉・戸田三郎四郎ニ申含、重差越候条、定懇可相達候、

一、廿五日・廿八日・朔日追々人数遣、三日ニ出馬候条、成其意、早々渡海候て、木津城*14成共何成共、見合取巻儀可申付候、面々人数何も一手ニ*15居陣候て、無越度様ニ調儀専一候、

一、甚右衛門尉・三郎四郎ニ申含遣候間、其様子聞届、蜂須賀各へ相談肝要候、謹言、

   六月廿日*16                       秀吉(朱印)

    美濃守殿*17

『秀吉文書集二』1464号、173~174頁
 
(書き下し文)
 
 書状ならびに蜂須賀そのほうへの書中、披見を遂げ候、
 

一、長曽我部のこと、最前申し出でそうらいつるは、土佐一国・伊与国、ただいま長曽我部方へ進退の分にて、毛利方・小早川方へ安国寺をもって相談ぜしめ、もっともの内存にそうらわば、右の通りに宥免すべきと申し聞け候ところ、聞き違い候て、安国寺このほうへ罷り上り、伊与まどかに給わずそうらわば外聞迷惑に候よし、小早川申すよしに候条、与州まどかに小早川に遣わし候、しかるあいだ土佐一国にて侘言申しそうらわば指し置くべく候、委細尾藤甚右衛門尉・戸田三郎四郎に申し含め、かさねて差し越し候条、さだめてねんごろに相達すべく候、

一、廿五日・廿八日・朔日追々人数遣わし、三日に出馬候条、その意をなし、早々渡海候て、木津城なりともなんなりとも、見合わせ取り巻く儀申し付くべく候、面々人数いずれも一手に居陣候て、越度なきように調儀専一に候、

一、甚右衛門尉・三郎四郎に申し含め遣わし候あいだ、その様子聞き届け、蜂須賀おのおのへ相談じ肝要に候、謹言、

 

なおもって土佐一国にてそうらわば、長曽我部指し置くべく候、委細甚右衛門尉・三郎四郎に申し含め候、已上、

 

(大意)

 

 そなたからの書状と正勝がそなたへあてた書状拝見しました。

一、元親の件、最近申し出たところによると、土佐一国と伊予は今長宗我部の領地について、毛利方・小早川方へ恵瓊を通じて話を通したところ、合意したので、そうせよと命じました。しかし行き違いがあったようで、恵瓊が上坂し、伊予一国を完全にお与えくだされなければ当家の名誉が損なわれると隆景が主張していると申しました。そういうわけで伊予一国を隆景に与えます。そういうことですので、土佐一国でよいと元親が申し出ればそのままにします。詳しくは尾藤知宣・戸田勝隆に言い含め、ふたたび遣わしましたので、今度は間違いなく伝わるはずです。

一、二十五日、二十八日、七月一日につぎつぎと軍勢を遣わし、三日に出馬しますので、そのように心得、早速渡海し、木津城でも何城でもいいから相手と出会い次第包囲するよう命じてください。おのおの軍勢がまとまって陣を構え、過ちのないよう調整してください。

一、知宣・勝隆に言い含めましたので、よく話を聞き、蜂須賀その他と話し合うことが重要です。謹言。

 

追伸。土佐以外は差し出すと申し出たなら、そのまま長曽我部に土佐一国与えてください。詳しくは知宣・勝隆に言い含めました。以上。

 

 

 

 

次に掲げる2日前の小早川隆景にあてた秀吉の書状によれば、長宗我部氏は阿波・讃岐を返上すると申し出たようである。残る土佐と伊予は、土佐を長宗我部氏に、伊予を毛利氏・小早川氏に与えようと話し合っていたが、小早川氏が「外聞迷惑」を理由に伊予一国を与えてほしいと主張しているので、その通りにすると述べている。この間恵瓊が使者となっているが、彼と秀吉は主従関係にはなく、「雇用」関係にあったというのがここ20年くらいの成果のようである*18

 

その恵瓊が秀吉に隆景の主張を述べた部分は「外聞迷惑に候、小早川申す」とクォーテーションマーク(?)を意味する「由」が続いていてやや複雑である。またいくら疑義が生じたからといって念の入ったことに三度も繰り返していてくどい。

 

 

 

[参考史料]

 

今度長曽我部阿波・讃岐致返上、実子出之、子共*19在大坂*20させ、可致奉公申候間、既人質雖請取候*21、伊与儀、其方御望之事候間、不及是非、長曽我部人質相返候上、伊予国一職*22其方進之候、自然*23長曽我部令宥免候者、土佐一国可宛行候也、謹言、

  天正拾参

   六月十八日                         秀吉(花押)

     小早川左衛門佐殿

『秀吉文書集二』1463号、173頁

 

(書き下し文)

 

このたび長曽我部阿波・讃岐返上致し、実子これを出し、子共在大坂させ、奉公致すべきと申し候あいだ、すでに人質請け取り候といえども、伊与の儀、そのほう御望みのことに候あいだ、是非に及ばず、長曽我部人質相返し候うえ、伊予国一職にそのほうこれを進じ候、自然長曽我部宥免せしめそうらわば、土佐一国宛行うべく候なり、謹言、

 

(大意)

 

このたび元親が阿波・讃岐の両国を返上し、実子を差し出して大坂に住まわせてお仕えしたいと申してきました。すでに人質を請け取ったものの、伊予国をお望みでしたので致し方ありません。人質を返した上で、伊予国一円をそなたに進上します。もし元親をお許しになるのでしたら、土佐一国を彼に充行うつもりです。謹言。

 

 

 

両文書で際立つのは朱印と花押の使い分けと「美濃守殿」に対して隆景の場合は「小早川左衛門佐殿」と名字を添えている点である。年代を明記する点においても「公的」文書であり、総じて秀長に比して隆景により厚い。さらに「御望」、「進之候」と丁重な言葉遣いも見られ、この点でも秀長と扱いが異なっている。24日付書状においても同様に、「御辛労」といった丁寧語や、尊敬の助動詞「被」(らる)が用いられるなど恭しい印象を受ける*24。本朱印状を日程的に挟んでいるので扱いの差は歴然であろう。

 

一方秀吉と隆景の関係は、「伊予国を与える」という表現の使い分けにあらわれている。隆景宛の書状では「進之候」(差し上げる)ときわめて慇懃であるのに対し、秀長宛朱印状では「(隆景が)給わずそうらわば(と申している)」(下さらなかったら)、「小早川に遣わす」(小早川に与える)と身分の高低を意識した表現が見られる。「表向」(オフィシャル)には対等であるが、秀吉の「身内」(「奥向」=プライベイト)ではそうでもなかったようだ。土地を与えるなら表向にも主従関係となるはずだがなんとも複雑である。

 

さらに、秀吉関白就任直後の7月19日付隆景宛秀長書状*25においても「御存分」、「御粉骨」、「御使者見及ばれ候」など恭しい表現が見られ、差出が「羽柴美濃守秀長」とあらたまっていることから、少なくとも天正13年ごろ隆景は秀長にとって格上の存在だったことだけは確かである。

 

 

*1:元親

*2:尾藤知宣、秀吉黄母衣衆。但馬国城崎郡豊岡城主

*3:戸田勝隆、同。播磨国飾磨郡姫路城主

*4:正勝。播磨国揖保郡龍野城主

*5:正勝から秀長への書状

*6:輝元

*7:隆景

*8:恵瓊

*9:心の中で思うこと、内々での所存

*10:マドカニ、完全に。後掲参考史料の「一職」と同義

*11:名誉、高い評判

*12:どうしてよいか途方に暮れる、損なう

*13:元親の申し出

*14:阿波国板野郡、城主は東条関之兵衛

*15:まとまって

*16:天正13年

*17:羽柴秀長

*18:関口崇史「安国寺恵瓊」152~153頁、日本史史料研究会編『戦国僧侶列伝』星海社新書、2018年

*19:子たち、複数形

*20:徳川期の「在江戸」

*21:複数の人質のうち一人以上はすでに秀吉のもとへ送られていたらしい

*22:伊予国すべて

*23:もし

*24:1467号。ただし年代はない

*25:『大日本古文書 小早川家文書之一』485号、456~457頁