日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正7年12月10日浄土寺和泉宛羽柴秀吉書状

浄土寺百姓之内、令逃散、別而荒地共在之由候、散*1候百姓共、早々召返、耕作可申付候、下々不謂儀*2不可有之候、恐々謹言、

   天正七           藤吉郎

    十二月十日          秀吉(花押)

       浄土寺*3

         和泉殿

                       「一、209号、69頁」

 

(書き下し文)

浄土寺百姓のうち、逃散せしめ、べっして荒地ともこれあるよしに候、散じ候百姓ども、早々召し返し、耕作申し付くべく候、下々謂われざる儀これあるべからず候、恐々謹言、

(大意)

 浄土寺の百姓どものなかに逃散し、耕地を荒れるがままにしているという噂も聞いている。逃散した百姓たちを早々に呼び戻し、耕作するように命じなさい。下々の者へ正当な理由のない負担を課すことは禁ずる。謹んで申し上げました。

 

 

浄土寺は建久年間(1190~1199)播磨国加東郡大部庄に重源が建立し、現存する寺院である。位置は図の通り、加古川東岸に位置する。

 

天保播磨国絵図の加東・加西郡

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https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/detail/detailArchives/0303000000_5/0000000290/00

近世中期の浄土寺周辺図

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         『小野市史』第5巻 口絵2「一柳土佐守知行所絵図」より作成

浄土寺周辺村高推移

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                『小野市史』第5巻、82~84号文書より作成

また三木城と浄土寺の位置は以下の通りである。まだ、三木城とにらみ合いが続くなかこの召し返し令が出された点は注意したい。

三木城と浄土寺

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                 『日本歴史地名大系』兵庫県より作成

 

*1:「さんじ」、逃げる

*2:正当な理由のない負担を課すこと

*3:播磨国加東郡極楽山浄土寺