越前国并賀州内余禰郡*1・能美郡両郡*2、惟五郎左*3へ一職*4申談候之処、余禰郡之儀、其方へ惟五被進之候、於秀吉尤候条、彼郡一職召置、①百姓等召返、政道*5以下専要候、②在々江雖可申触候、其方堅可被申付候、為其如此候、仍如件、
天正十一
四月廿七日 筑前守(花押)
溝口金右衛門尉殿*6
「秀吉一、657号、210頁」
(書き下し文)
越前国ならびに賀州のうち余禰郡・能美郡両郡、惟五郎左へ一職申し談じ候のところ、余禰郡の儀、その方へ惟五これを進ぜられ候、秀吉においてはもっともに候条、かの郡一職召し置き、百姓等召し返し、政道以下専要に候、在々へ申し触らせるべく候といえども、その方堅く申し付けらるべく候、そのためかくのごとくに候、よってくだんごとし、
(大意)
越前一国および加賀のうち余禰郡・能美郡両郡一職を丹羽長秀に充て行うべきと相談していたところ、余禰郡についてはそなたに長秀から与えられたとのこと。実にもっともなことですので、余禰郡の土地と領民を一元的に統治し、百姓を呼び戻し、領地経営に励むようにしてください。郷村へ知らせるべきところですが、そなたにもきびしく申し付けます。念のため一筆したためました。以上です。
Fig. 加賀国余禰郡・能美郡周辺図
本文書は「恐惶謹言」、「恐〻謹言」で終える書状ではなく、「仍如件」という尊大な書き止め文言で終えており、さらに「筑前守」とのみ名乗り、「秀吉」の署名を花押にかえる点もまた同様に略式で、薄礼な形をとっている。花押を据えた文書を「判物」と、押印された文書を「印判状」(印肉の色により「朱印状」、「黒印状」などという)と呼ぶが、本文書は前者にあたり、厚礼である。
さて、本文書は旧柴田勝家領を丹羽長秀に与えるべきところ、長秀が自身の家臣である溝口秀勝に余禰郡を与えたので事後的に認めるというものである。この点から、事実上織田政権は秀吉が実権を掌握しつつあったと見てよさそうである。
「一職」という文言が象徴するように、秀吉は土地と百姓が一体であるべきと見ていたようで、戦乱を避けて逃散していた百姓を呼び返し、「政道」すなわち「あるべき統治」を行うように命じている(下線部①)。また、郷村へ直接触れ知らせるべきところだが、直接溝口にも申し付けるとも記している(下線部②)。郷村へ直接知らせる方法の代表は高札を立てることであろうが、領民にも「しかるべき統治」を行うと知らせようとする姿勢は興味深い。