日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

播磨国印南郡升田村の水害 「災害地名」? 

加古川兵庫県一の大河で、戦後ほぼ10年おきに水害が発生し、21世紀に入っても大きな被害をもたらしている*1。今回は下流域、播磨国印南郡升田村に伝わる水害の伝承を見ることにする。加古川流域は旱損にたびたび見舞われるため溜め池が多い。その一方で大河の氾濫に絶えず悩まされてきた。安永9年の口上書を引用する。

 

 

    乍恐聞伝之口上

                都築組

                   升田村

一、(中略)

一、①七拾八年以前*2元禄拾六未年(1703)満水ニ而村前<平津・伊保>*3庄弐ヶ井*4之水門吹抜キ堤江切レ込御田地夥敷掘レ崩へ*5は川欠*6石河原*7等ニ罷成御百姓とも之内ニも御田地ニ離レ候者多ク御座候而及極難候ニ付、御願申上可起キ帰*8分は情力*9を以テ起返シ申候、相残分川欠永引*10ニ相成申候、此節②堤切レ所之元トニ太兵衛・庄兵衛と申家弐軒御座候処、両家とも流失仕候、此両家人数男女八人御座候処不残散々ニ流申候、然レ共有所*11ハ当村地内山辺にも逗り*12或は土ぐろ*13藪際江もたどり付命助り罷有候由ニ御座候、尤太兵衛・庄兵衛義老人ゆへにも候哉溺死仕③太兵衛義は当村石塚ニ死骸逗り罷有候由、右之塚今におゐて太兵衛塚と申伝へ候、④庄兵衛義ハ堤切レ所之土ニ埋り相果申候由、尤⑤潰レ家之者共ハ村内之小名*14四軒やと申所へ居屋敷替へ仕只今家数弐拾軒計り御座候得とも⑥今ニ而も四軒屋と申伝へ候御事、

一、⑦六拾九年以前正徳二辰年(1712)満水ニ而…

一、⑧三拾弐年以前寛延二巳年(1749)七月洪水満水ニ而…

(中略)

右之通⑨当村之儀は元来度々水難ニ逢イ剰御田地度毎ニ大荒ニ罷成難義仕毎度御願申上候処御慈悲ヲ以願之通被為(闕字)仰付難有元ト之御田地に起返し候得共度々作土流レ失地味相替り候へは、作物何ニ而も取実*15無数*16内損多ク自然*17と困窮仕候様ニ罷成り次第々ニ指詰り御百姓共相続*18可仕手便*19無御座候ニ付、先年も御嘆*20奉申上候処…

   安永九子年(1780)八月   都築組升田村

                   組頭 十兵衛印*21

                   庄屋 角兵衛印

 御堰方

  原  源 内  様

  天野 三津右衛門様

(以下略)

              加古川市史』第5巻、104号文書、450~453頁

(書き下し文)

 

   恐れながら聞き伝えの口上

                都築組

                   升田村

一、(中略)

一、①78年以前元禄16未年満水にて、村前平津・伊保庄2ヶ井の水門吹き抜き、堤へ切れ込み、御田地おびただしく掘れくえまたは、川欠・石河原などに罷り成る御百姓とものうちにも御田地に離れ候者多く御座候て、極難におよび候につき、お願い申し上げ起き帰すべき分は精力をもって起き返し申し候、相残る分川欠・永引に相成り申し候、この節②堤切れ所のもとに太兵衛・庄兵衛と申す家2軒御座候ところ、両家とも流失仕り候、この両家人数男女8人御座候ところ、残らず散り散りに流れ申し候、しかれども有所は当村地内山辺にもとどまり、あるいは土畦・藪ぎわへも辿り着き、命助かり罷り有り候よしに御座候、もっとも太兵衛・庄兵衛義老人ゆえにも候や溺死仕り、③太兵衛義は当村石塚に死骸とどまり罷り有り候よし、右の塚今において太兵衛塚と申し伝え候、④庄兵衛義は堤切れ所の土に埋まり相果て申し候よし、もっとも⑤つぶれ家の者どもは村内の小名四軒やと申す所へ居屋敷替え仕り、ただいま家数20軒ばかり御座そうらえども、⑥今にても四軒屋と申し伝え候おんこと、

一、⑦69年以前正徳2辰年満水にて…

一、⑧32年以前寛延2巳年7月洪水満水にて…

(中略)

右の通り⑨当村の儀は元来たびたび水難に逢い、あまつさえ御田地たびごとに大荒に罷り成り難義仕り、毎度お願い申し上げ候ところ御慈悲をもって願いの通り仰せ付かせられ、ありがたくもとの御田地に起き返しそうらえども、たびたび作土流れ地味を失い相替りそうらえば、作物何にても取実無数内損多く、自然と困窮仕り候ように罷り成り、次第次第に指し詰まり、御百姓とも相続仕るべき手便御座なく候につき、先年も御嘆き申し上げたてまつり候ところ…

 

(大意)

 長くなりすぎたので、下線部①~⑥だけ示す。

 

①いまから78年前の元禄16年、水があふれ、当村前にある平津・伊保庄2つの用水路*22の水門をふきとばし、堤が決壊し・・・。

 

②堤が切れたところに太兵衛・庄兵衛という百姓の家2軒ありましたが、両家とも流失してしまいました。両家の人数は男女合わせて8人でしたが、残らずバラバラに流れてしまいました。

 

③太兵衛は当村内にある石の塚に遺体が残されていたという話です。この塚を現在まで「太兵衛塚」と申し伝えております。

 

④庄兵衛は堤が決壊したところで生き埋めになり相果てました。

 

⑤押しつぶされた家の者たちのうち太兵衛・庄兵衛を除く者たちは村内の小名のひとつ「四軒屋」というところに住処を変えていました。

 

⑥今でも「四軒屋」と申し伝えています。

 

 

図1  文化8年加古郡印南郡郡境絵図 升田村前平津庄井・伊保庄井

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加古川市史』第5巻、65号絵図、335頁


 最近「災害地名」という言葉を耳にする。それらの多くは漠然とかつての地形を表すものとして理解されているが、升田村においては「太兵衛塚」、「四軒屋」ともに元禄16年の洪水で被った被害の具体的な伝承を地名と結びつけて、およそ80年間伝えつづけてきた点で大きく異なる。「太兵衛塚」は溺死した者の遺体が発見された地に太兵衛の名が刻まれ、「四軒屋」は難を逃れた者たちに由来する地名として記憶されている。

 

残念ながら各種地名辞典を繙いてみたが、他県には見られる「小字一覧」が欠落しているため、これらの地名が現在まで伝わっているかは確認できない。ただ、この史料はすでに翻刻されており、ブログなどでも紹介されていて広く知られていることには注意すべきだろう*23

 

 なお、現在の升田の地形は図2の通りである。

図2 加古川市升田の地形

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                    「Google マップ」より作成

 

*1:https://www.kkr.mlit.go.jp/himeji/torikumi/river/about/his_kako.html

*2:「以前」は現代とニュアンスが異なり「今から~年前」のような意味になる

*3:<>内は割註

*4:「井」は用水路の意

*5:くえ、土や岩が崩れること

*6:かわかけ、河川の堤防が決壊して田畑が押し流されること

*7:石の転がる河原

*8:おきかえし、荒廃田をもとに戻すこと

*9:精力カ

*10:年貢を永年にわたって免除すること

*11:物事が起こった場所

*12:とどまる

*13:畦または畔、小高くなったところ

*14:コナ、村内の集落名

*15:収穫量

*16:多かったり少なかったり数量が定まらないこと

*17:「自然」は近世前期までは「万一」という意味だが、中期以降になると「当然の成り行きで」という意味に変わる。ここでは後者

*18:年貢を納め、経営を続けていくこと

*19:手段

*20:「嘆く」は歎願する、願い出るの意。「悲嘆に暮れています」という意味ではない

*21:この文書は充所にある「堰方」に提出したものの控えなので、原本には押印したことを示すため「印」と書いている

*22:図1参照

*23:

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