態申入候、仍此表之儀、中納言樣(秀次)(闕字)御意を以、羽柴忠三(蒲生氏郷)、中納言樣より堀尾帯刀(吉晴)、江戸大納言(家康)より井伊兵部少輔(直政)各致同道、今度南部表へ相働申候、去朔日ニあなたい(姉帯)、ねそり(禰曾利)と申城二ヶ所、直懸ニ責崩申候、依之端城共開退、九戸へ楯籠候之処を、去二日より執巻、早堀際まて仕寄申候処ニ、九戸(政実)髪をそり走入申付而、則(闕字)中納言樣へ、九戸同妻子共召連、返進(ママ)上申候、雖然悪徒人共事ハ悉刎首、頸数百五十余為持進上候、櫛引(清長)と申者も走入申候、是も妻子共(闕字)中納言樣へ進上申候、如此上ハ、奥口無残所相澄申候、只今南部方居城之普請、各令相談申付候、是又近々可為出来候、彌仕置等堅申付、頓而可罷上候、御次も候ハゝ、此通御物語候様ニ、被仰上候て可給候、委細最前羽柴会津少将(蒲生氏郷)殿より、御注進被仰上候間、不能委細候、恐々謹言、
(天正十九年) 浅野弾正少輔
九月十四日 長吉御判
長束大蔵太輔殿
御陣所
(書き下し文)
わざわざ申し入れ候、よってこの表の儀、中納言樣御意をもって、羽柴忠三、中納言樣より堀尾帯刀、江戸大納言より井伊兵部少輔おのおの同道いたし、このたび南部表へあい働き申し候、去るついたちに姉帯、禰曾利と申す城二ヶ所、すぐ責め崩しにかかり申し候、これにより端城とも開き退き、九戸へたてこもり候の処を、去る二日より取り巻き、早堀きわまでしより申す候ところに、九戸髪をそり走り入り申し付けて、すなわち中納言樣へ、九戸・同妻子とも召し連れ、返進上げ申し候、しかりといえども悪徒人どもの事はことごとく首を刎ね、頸数百五十余進上持たせ候、櫛引と申す者も走り入り申し候、これも妻子とも中納言樣へ進上申し候、かくのごときうえは、奥口残りなくあい澄まし申し候ところ、ただいま南部方居城の普請、おのおの相談せしめ申し付け候、これまた近々出来たるべく候、いよいよ仕置などかたく申し付け、やがてまかりのぼるべく候、御次も候はば、このとおりお物語り候ように、仰せ上げられ候てたもうべく候、いさい最前羽柴会津少将殿より、御注進仰せ上げられ候あいだ、委細あたわず候、恐々謹言、
(大意)
一筆申し入れます。南部、九戸の件、秀次さまのお考えで蒲生氏郷、秀次さまからは堀尾吉晴、徳川家康からは井伊直政がそれぞれ同道し、このたび南部地方へ出向きました。9月1日に姉帯、禰曾利という名前の城二ヶ所はすぐに攻めくずし、これで出城なども開城し、軍勢も撤退し、九戸城へたてこもったところを、9月2日より取り囲み、早堀きわまで仕寄で取り囲みましたところ、九戸政実が剃髪しましたので蟄居するよう命令しました。すなわち中納言樣へ、政実、妻子ともども連れて、返事を致しました。そうはいっても悪人どもはすべて首を刎ね、頸数150あまりを進上しました、櫛引清長という者も逃げ込みました。櫛引の妻子とも中納言樣へ進上いたしました。このようなことになった以上、奥口のこりなく決着しました。現在南部の家臣たちの居城の普請は、それぞれ相談させております。これもすぐに決着が付くでしょう。いよいよ奥州の政治をきびしく命令したうえで、上京いたします。順番もありますので、このとおりにお話になるよう、関白さまへお伝え下さい。詳しくは最初に蒲生氏郷殿が申し上げるでしょうからここでは割愛いたします。以上謹んで申し上げました。
*中納言樣(闕字)御意:「御意」の前に一字分闕字がある。秀次さまのお考え=「御意」に対する敬意表現。
この闕字はもう一ヶ所「則(闕字)中納言樣へ」に見える。これも秀次に対する敬意を込めている。
原文書を見ていないのでなんともいえないが、長束正家に宛てた書状の「控え」を見て、この写を書き取ったようだ。「長吉御判」とあるのはそこに浅野長政の花押が据えてあったのを、祖先への敬意を込めて「御」判がここに据えてある、という意味だと思われる。
*姉帯:陸奥国糠部郡
*禰曾利:根反とも書く。陸奥国糠部郡。姉帯、根反とも現在の岩手県二戸郡一戸町
*櫛引と申す者:糠部郡の国人領主、櫛引清長。
*仕寄:下図参照
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