(切封ウハ書)
「 安宅三郎兵
義弘様 秀安
(切紙)
猶以、本田源右・休意ゟ具可被申入候、以上、
七月廿二日之御札、本田源右*3当月朔日之御状、休意*4同事ニ、去廿七日、於京都参著*5、両人口上并御一書、具ニ承届候、則拙者在京仕候条、委治部少申聞候、弥直ニ治部少可承由申ニ付、右両人同道申、治部少面ニ被承候、さても/\又一*6様御事*7、中/\可申様無之候、御心底乍憚奉察候、我等式迄*8一入*9ニ御咲止*10、書面難申分*11候、
一、義久御隠居之段、いまた不被申上候、又一様如此之時者、于今不被申入事、御仕合*12ニ罷成候事、
「島津家文書之四」1764号文書、230~232頁
(書き下し文)
なおもって、本田源右・休意よりつぶさに申し入ら
るべく候、以上、
七月廿二日の御札、本田源右当月朔日の御状、休意同事に、去る廿七日、京都において参著し、両人口上ならびに御一書、つぶさに承り届け候、すなわち拙者在京つかまつり候条、くわしく治部少申し聞け候、いよいよじかに治部少承るべきよし申すにつき、右両人同道申し、治部少面に承られ候、さてもさても又一様御事、なかなか申すべき様これなく候、御心底はばかりながら察したてまつり候、我等式までひとしおに御咲止、書面申し分けがたく候、
一、義久御隠居の段、いまだ申し上げられず候、又一様かくのごとくの時は、今に申し入られざること、御仕合に罷り成り候こと、
(大意)
追伸、本田親商、赤塚真賢からくわしく申し上げます
七月二十二日づけのあなた様からのお手紙、本田親商からの今月一日づけのお手紙ともに赤塚真賢が二十七日京都へ持参し、両名から口頭および文書にて、詳しくお話を承りました。当方が在京していたので、詳しく石田三成に報告しました。直接三成に申し上げたいというので、ふたりを連れて三成に面会させました。わたくしどもも大変残念に思います。書面にしたためる言葉も見つかりません。
一、義久隠居の件、いまだにご報告がありません。久保様がこのような事情ですから、いまだ報告がないのも当然の成り行きでしょう。
文禄2年の閏9月は「大の月」*13なので「晦日」は30日を指す。久保が没したのが9月8日のことなのでこの書状の日付はおよそ1ヶ月半後にあたる。