高山宗熊が、阿湖姫と若君さまの縁組みを申し入れた書状について、写真を入手したので、もう少し考えてみたい。
まず、この書状もそうだが陣触や手配書(戦国期にそういったものが実際に存在したか否かは措く)といった当時の和紙が白いのに対し、21世紀新発見の永禄3年の書状が赤茶色に変色しているのは経年劣化を考えていて、とても工夫が行き届いていると思う。
西郷どんの場合、照明が原因かも知れないが、調所広郷の血判状が当時から「経年劣化」しているのはいただけない。いかにも現代人が「古文書」を見るという先入観にとらわれている。
次に、字体だが行書と楷書の中間くらいでは、と思う。「候」はふつう
典型的な「候」 奉公人請状
http://blog.livedoor.jp/kgh77araki/archives/50400881.html
3のようにひらがなの「ひ」あるいはラテン文字の「u」みたいな形がポピュラーだが、1、2,4のようにほとんど筆の勢いで「ちょん」と点を打っただけのケースもよくある。ときどき人名漢字で「土」や「友」に点がつくとかつかないとかで騒ぎになるが、もともと毛筆で書かれた文字であるため、あまり(あまり!)問題にはならなかったようだ。
「次」と「治」はくずし字(こういう言い方自体が活字に毒されていてる証左なのだが)がよく似ているため、当人も「治郎兵衛」だったり「次郎兵衛」だったりあまり気にしなかったらしい。
本文の「姫君」のまえに空白があるが。これが闕字で敬意を表するマナーである。また改行する平出、さらには他の文字より1字分あげて書く擡頭という書き方もある。こうしたマナーを当時書札礼(しょさつれい)と呼び、現代と同様ハウツー本があった。○字分、日付から下げるだの丁寧に、かつ詳細に説明している。身分制社会だからこそこうしたマナーは現代よりも厳格に守られていた。
平出の例
上の文書の本文終わりから2行目「登」の下は何も書かれず改行した上で「城」と書いている。「四時登城可仕旨」で「四つ時登城仕るべきむね」と読む。「城」というよりおそらく城主、今でいう「藩主」への敬意を表したものである。
ただし、奉公人請状の本文5行目は行末に「御公儀様」とあり、書札礼を知らなかったのか、それとも蔑ろにしていたのか、それはなんともわからない。マニュアルといっても現代のように容易に入手できるものではなく、口伝のようなケースも多かったことだろう。教養ある人から見れば、「なんじゃこりゃ!」ということになる。ちなみに内容は雇用契約書で、給金について「追々この者にお渡し下さるべく」とある。
また、擡頭の事例はこちら。
本文最終行の「天気」が突出している。「天気」とは天皇や主君などの意向や機嫌という意味で、この文書が朱雀天皇綸旨として伝わっているので朱雀天皇への最大級の敬意を込めているわけだ。
この闕字や平出は「おんな城主直虎」や「西郷どん」でもふんだんに散りばめられているので、録画された方は止めてじっくり眺めることをお勧めする。文字は読めなくとも、闕字や平出はすぐに見つかるので、文字はなくともそこに大切な意味が込められていることは感じられると思う。
「いっそ」:井上陽水のファンなのだろうか。
「候得共」:「そうらえども」で「~~ではありますが○○」というときの決まり文句。
「而」:変体仮名の「て」
通常手紙に、年は書かないが月日は書く。
宛名に名前を書くのはまずい。「西郷どん」でも調所広郷の血判状の宛名(宛所=あてどころ)に「阿部伊勢守「正弘」様」と書かれていたが、あくまでも視聴者にわかりやすくするためで、「正弘」などと書くのは無礼にあたる。
現在の法律でも原本と写や六法などの活字と異なるところがある。「御名御璽」だ。「お名前と天皇御印」という意味でたとえば原本には
とあるが、官報や六法などではこの部分は「御名御璽」と書き換えられている。
名前を呼ぶのは失礼なので、建物を指す「お館」「お屋形」(「親方ではない・・・おーやかた:おやーかた)と呼んだり、律令制の官職である国司の長官(すけ)や治部少輔など官途名で呼ぶのが習わしである。
長官(かみ)
ー次官(すけ)
ー判官(ほうがんびいきの判官だが「じょう」と読む)
ー主典(さかん)
ただし役所によって宛てる文字は異なる。国司の場合は
「守」(かみ)
ー「介」(すけ)
ー「掾」(じょう)
ー「目」(さかん)
現在の名前に「すけ」と読ませる漢字が多いのはこの律令制の四等官に倣ったものだろう。
さらには官職と位階が釣り合うような制度を官位相当といい、「大納言」という官職にふさわしい位は「正三位」、大、上、中、下国のうち「上国」の「守」にふさわしい位は「従五位下」という一覧表が出来ていた。