(包紙ウハ書)
「 島津修理大夫殿*1 」
(端裏)
「(墨引)」
就(闕字)勅諚*2染筆候、仍関東不残奥州迄被任(闕字)倫*3命、天下静謐処、九州事于今鉾楯*4儀、不可然候条、国郡境目相論、互存分*5之儀被聞召届、追而可被(闕字)仰出候、先敵味方共双方可相止弓箭*6旨、(闕字)叡慮*7候、可被得其意儀尤候、自然不被専此旨候者、急度可被成御成敗候之間、此返答各為ニ者一大事之儀候、有分別可有言上候也、
拾月二日*8(花押)
島津修理大夫殿
『秀吉文書集二』1640号、265頁(書き下し文)勅諚について染筆候、よって関東は残らず奥州まで綸命に任され、天下静謐のところ、九州のこと今に鉾楯の儀、然るべからず候条、国郡境目相論、互いに存分の儀聞し召し届けられ、おって仰せ出さるべく候、まず敵味方とも双方弓箭を相止むべき旨、叡慮に候、その意を得らるべき儀もっともに候、自然この旨を専らにせずそうらわば、きっと御成敗ならるべく候のあいだ、この返答おのおのためには一大事の儀に候、分別ある言上あるべく候なり、(大意)勅命について一筆申し入れます。関東は残らず、奥州まで綸命を受け天下の静謐を実現しているのに、九州は今も戦争状態にあるのはけしからぬことです。国郡境目相論については双方の言い分をお聞き届けになり、そののち「国分」の裁定が下されることでしょう。まずは敵味方とも双方戦闘を止めることが天皇のご意思です。当然これにしたがうことでしょう。万一この趣旨にしたがわないのならば、必ずやご成敗となるでしょう。ご返答はご自身の一大事です。色よいご返事があることでしょう。
1990年代以降戦国織豊期の動乱を、「国郡境目相論」として理解することが一般的になっている。もちろん実態は土地や人、生産物など資源(リソース)の分捕りであるが、それが「国境」もしくは「郡境」相論=紛争として史料上にあらわれることを重視してのことである。その相論を「解決」する上級権力、つまり「紛争の裁定者」として戦国大名や織豊政権があらわれるのがこの時期の特徴である*9。
本文書の趣旨は「九州のこと今に鉾楯の儀」や「まず敵味方とも双方弓箭を相止むべき旨、叡慮に候」といった戦争状態にあることを、天皇の意思を受けて停止させるというところにある。つまり「鉾楯」や「弓箭」を停止した状態を秀吉が実現させるつもりであるが、「義久殿にとって一大事ですのでよくよく考えてお答えください」と迫っているのである。
この文書について義久家臣で日向国宮崎城主の上井覚兼は全文書き写した上で、次のように有名な感想を記している。
『大日本古記録 上井覚兼日記』天正14年1月23日条
旧冬*10羽柴殿より書状到来候、ならびに細川兵部太輔入道玄旨*11・当時*12の茶湯者宗易*13、両所よりも副状あり、羽筑*14去年関白に任じられ候、しからば書状の趣、
(上述文書の本文)拾月二日
①判ばかりなり、名乗などナシ
②当ところ*15、嶋津殿、といかにも早々書候*16、このご返書関白殿へにてそうらえば*17、もちろんその通りに相応の御請けたるべく候、去りながら、③羽柴ことはまことにまことに由来なき仁と世上沙汰候、当家のことは、頼朝已来愀変*18なき御家のことに候、しかるに④羽柴へ関白殿噯*19いの返書は笑止*20のよしとも候、また⑤右の如きゆえなき仁に関白を御免のこと、ただ(闕字)綸言*21の軽きにてこそ候へ、
上井覚兼による文書の写はかなり正確であるが、②の「充所が『嶋津殿』 といかにも即席で書き上げた風である」というのは、上述文書と突き合せると誤りであることがわかる。写(コピー)では知りようのないことを原本(オリジナル)が教えてくれる端的な事例である。
①の「判」つまり花押のみで実名(ジツミョウ)や官職などの名乗がないのは、②の充所が略式であることとあわせて無礼であると漏らしている。もっとも秀吉が「従一位関白内大臣豊臣朝臣秀吉」などと名乗ったとしても、それはそれで「怪しげな」印象を与えたことだろう。
世間が、秀吉を実に由緒も来歴もあやしいものだと評しており(③)、したがって「名門中の名門」である当家が、秀吉に対する返書を関白殿扱いにするとは異常なことであるし(④)、秀吉のように胡散臭い人物を関白に任じるとは勅命もなんと軽いものだろうか(⑤)と感じたわけである。
秀吉が関白に上りつめるために編み出した、近衛前久の猶子になるという「離れ業」=カラクリを覚兼が知るのは2ヶ月ほどのちの3月18日のことであり*22、「笑止」=異常な出来事と映るのも無理からぬことであった。