去月廿九日注進状*1、四日於柏原*2披見候、廿七日至清水*3着船之由被聞召届候、無由断動*4、切〻*5申越之義感思召候、九鬼*6相談、伊豆地躰*7早舟ニて可見計由、順風相待尤候、少茂越度候てハ不可然候、今日大柿*8江被為成候、猶以追〻可致言上候、猶長束大蔵大輔*9・山中橘内*10可申候也、
三月四日*11 (朱印)
脇坂中務少輔とのへ*12
(四、2980号)(書き下し文)去る月廿九日注進状、四日柏原において披見候、廿七日清水に至り着船の由聞し召し届けられ候、由断なく動き、切〻申し越すの義感じ思し召し候、九鬼相談じ、伊豆地躰早舟にて見計らうべき由、順風相待ちもっともに候、すこしも越度候ては然るべからず候、今日大柿へなさせられ候、なおもって追〻言上いたすべく候、なお長束大蔵大輔・山中橘内申すべく候也、(大意)2月29日付の注進状を、今月4日柏原にて読んだ。27日に清水に入港した由確かに聞き届けた。油断なく働き、懇切丁寧に報告する点実に感じ入った。嘉隆とよく相談し、伊豆の地形を早舟で観察するとのこと、清水で日和見するのはもっとなことで、少しでも落ち度があってはならない。今日大垣へ着く予定である。なお今後も逐一報告すること。なお正家・長俊が口上にて述べる。
近江国坂田郡柏原は中山道や東海道の宿場町であった。
図1. 近江国坂田郡柏原周辺図
また駿河国庵原郡清水は地形図を見ればわかるように天然の良港である。ここに安治や嘉隆などが着船し、日和見をして順風を待った。交通手段は今日でも天候に大きく左右されるが、和船の時代はより日和見の技術に長けていることが船乗りや船頭に求められた。
図2. 駿河国庵原郡清水周辺図
2月29日付の書状を、3月4日に受け取ったということは駿河国清水と近江国柏原の通信に5日を要したことになる*13。