去朔日至神原*1着陣之由註進状、今日六日於清須*2披見候、家康*3・内府*4令相談、先手へ可令陣替之旨、①何様ニモ家康指南次第*5、無越度様裁判*6専一候、度〻如被仰出候、陣取丈夫ニ申付、御着座*7迄可相待候、次②伊豆浦処〻放火、おむす*8の城迄退散之由、得其意候、猶黒田勘解由*9・長束大蔵大輔*10可申候也、
秀吉公
三月六日*11 御印
近江中納言殿*12
(四、2981号)(書き下し文)去る朔日神原にいたり着陣の由註進状、今日六日清須において披見候、家康・内府相談じせしめ、先手へ陣替せしむべきの旨、①何様にも家康指南次第、越度なきよう裁判専一に候、たびたび仰せ出され候ごとく、陣取丈夫に申し付け、御着座まで相待つべく候、次に②伊豆浦ところどころ放火、重須の城まで退散の由、その意を得候、なお黒田勘解由・長束大蔵大輔申すべく候也、(大意)去る1日蒲原に着陣したとの注進状を、本日6日清須にて読んだ。家康・信勝とよく相談し、先手へ陣替えするとのこと、何事に関わらず家康の指南を受け、落ち度のないよう取り計らいなさい。たびたび命じているように、陣地は堅固に造り到着まで待つように。次に伊豆の浦々を放火し、重須城まで退却させたのこと、手柄である。なお詳しくは孝高・正家が申す。
図1. 伊豆国君沢郡重須と伊豆浦〻
花押ではなく朱印を捺していることや書止文言の「者也」から家康にくらべ薄礼であるなど文書の様式からも秀次は家康より下位の序列にあった。
3月1日付の注進状を6日に受け取ったので、蒲原・清須間に5日を要したことがわかる。
注目されるのまず下線部①で、秀次に家康の「指南次第」に動くよう命じている点である。前近代社会には主従関係をはじめ様々なヒエラルヒーが併存していた。「指南」もそのひとつで寄親寄子関係に似ている。指南・被指南の関係は被指南者が指南者に「頼む」ことでその保護下に入り、指揮命令系統に入るが、その関係はきわめて不安定でしばしば訴訟の原因となった。秀吉は秀次に家康の指揮命令系統下に入ることを命じたわけである。
次に下線部②では伊豆の浦々を放火し、北条勢を重須城に退却させたことである。放火したのが北条勢か秀次かは本文書からは判然としない。退却する軍勢が放火するという焦土作戦はこの時期珍しくなかったからである。ただいずれにしろ中近世の戦争で在地が壊滅的な打撃を受けていたことは間違いない。古今東西戦争とはそういうものである。