日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正16年6月16日島津義久宛豊臣秀吉朱印状

 

 

しつくいぬり*1候者、唐人*2・日本仁*3共当国*4ニ在之由候間、早〻申付可差上候、不可有由断候、猶浅野弾正少弼*5・増田右衛門尉*6可申候也、

    六月十六日*7(朱印)

         島津修理大夫とのへ*8

(三、2527号。下線部は引用者)
 
(書き下し文)
 
漆喰塗り候者、唐人・日本仁とも当国にこれある由に候あいだ、早〻申し付け差し上ぐべく候、由断あるべからず候、なお浅野弾正少弼・増田右衛門尉申すべく候なり、
 
(大意)
 
漆喰塗りを専らにしている者、唐人・日本人ともにそなたの領国内に多数いると聞き及んでいるので、早々に上京するよう促しなさい。くれぐれも油断のないように。詳しくは浅野長吉・増田長盛が口頭で述べるものである。
 

 

薩摩国には伊勢国安濃郡安濃津、筑前国博多津とともに「三箇の津」と呼ばれる坊津があった。坊津は琉球、大陸への交易の拠点として重要な港である。こうしたことから島津領国は一種の国際都市のような様相を帯びていたのだろう。「これある由に候」とあるように秀吉は「漆喰塗り」が多く集まっているという噂を聞き付け、彼らを上京させるよう促したのである。直接町村に触を出さず、大名に充てているところは、従来の法令やのちの刀狩令と同様で、一般庶民に対して法令遵守を期待せず、大名を通じて馴致させる方式である。

 

Fig. 薩摩国川辺郡坊津周辺図

                   『日本歴史地名大系 鹿児島県』より作成

また熟練した労働力が京都や大坂周辺のみに集住していたのではなく、国際的な港湾都市を拠点にして東アジア世界全体を渡り歩いていた可能性も考えられ、文化や技術伝播、貨幣流通との兼ね合いで考える必要もある。

 

 

*1:漆喰塗り。寺院や城郭、土蔵などの壁面に使われた防火、防湿用の塗装

*2:中国大陸から渡ってきた人々、転じて外国人一般を指すが日本に住みついた者も多くいた

*3:「人」を「仁」(ジン)と呼ぶ事例はよく見られる。たとえば「~と申す仁」は「~という人/者」の意味である

*4:島津義久の領国内

*5:長吉、のちの長政

*6:長盛

*7:天正16年、グレゴリオ暦1588年8月8日、ユリウス暦7月29日。6月後半は立秋のころに当たる

*8:義久