日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正15年12月28日鬼塚刑部宛佐々成政知行充行状

 

 

為扶助宇土郡*1之内以五百石宛行候訖、坪付*2別帋*3有之、全知行不可有相違之状如件、

  天正十五

   十二月廿八日        成政(花押)

      鬼塚刑部とのへ*4

 

(富山市郷土博物館図録『佐々成政の手紙』40頁、2021年)
 
 
(書き下し文)
 
扶助として宇土郡のうちをもって五百石宛行い候おわんぬ、坪付別帋これあり、まったく知行相違あるべからざるの状くだんのごとし、
 
(大意)
 
扶助として宇土郡のうちから500石を充て行ったところである。坪付は別紙のとおりである。知行について相違ないことをここに保証する。
 

Fig. 肥後国宇土郡周辺図

                   『日本歴史地名大系 熊本県』より作成

鬼塚刑部は肥後の土豪のようである。つまり佐々成政は越中から連れてきた家臣のほか、肥後に根を下ろしていた在地の有力者をも家臣団に編制した。成政に恭順の意を示さなかった者たちは叛旗を翻した。それが肥後国人一揆である。

 

さて天正15年12月といえば一揆鎮圧に手を焼いていた頃である。

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

 

この時期成政はいまだ大名として知行充行を行っていたのである。鬼塚刑部がいかなる経緯を経て成政の家臣となったのか不明だが、成政が大名としていまだ現役であったことを示しており、興味深い。翌年閏5月に死を賜るわずか半年前のことである。

 

また本文中下線部に「坪付け別紙これあり」とあるように成政が検地を行ったというのは間違いなさそうである。

 

知行充行状は武家が主従関係を結ぶもっとも基本的な文書である。

 

*1:肥後国、下図参照

*2:もともとは一筆ごとに土地の面積や所在地を書き上げたり、その書き上げられた帳簿を意味したが、戦国期以降は大名領国制の発展とともに知行目録を意味するようになった。ここでは後者

*3:「紙」の異体字

*4:後掲図録46頁によれば肥後国の土豪とする