天正16年2月禁制が発せられた寺社の位置は下図の通りである。禁制は発給者が自発的、積極的に発する文書でなく、受給者側による申請があってはじめて下されるものであり、制札銭などの金銭的支出を要した。
FIg. 東福寺、妙心寺、龍安寺と御所、聚楽第、のちの御土居の位置
10年以上も前の文書であるが、天正3年9月日越前国足羽郡折立村の正明寺に宛てて発せられた金森長近禁制の末尾には以下の文言が書き加えられている。
一切出すべからず、もし何かと違乱の輩これあるにおいては、早〻注進いたすべきものなり、
(大意)制札銭、上使銭、指出銭について今後一切負担する必要はない。もしこの禁制に反してこれらの銭を徴収しようとする者が現れた場合は、速やかに報告しなさい。(『中世法制史料集 第五巻 武家家法Ⅲ』838号文書、194頁)
自軍兵士による掠奪行為をやめるよう申請するため、こうした制札銭、上使銭、指出銭などの多額の負担を寺社や郷村が強いられる習慣はこの時代に定着していた。もちろん状況により制札銭のみですむ場合もあれば、根回しするためあちらこちらに銭を配るなど負担が嵩むケースもある。文字通り「地獄の沙汰も金次第」であり「Money talks.」=金がものを言う社会なのである。
なお掠奪してはならないのは自軍の兵士であり、また実際に掠奪を行った者を捕らえるのは寺社や郷村である。当然ながら敵兵による掠奪から積極的に寺社や郷村を守ることなどありえなかった。
このすぐあとに後陽成天皇の聚楽第への巡幸が行われるのだが、秀吉の足下は治安が案外悪かったようである。