一、むつのかみ*1、肥後ニ有之者共曲事ニあらす候間*2、其ぶん/\二*3知行可被下候条、くまもとに堪忍可仕事*4、
天正十六年
後五月十四日*5 (朱印)
小早川左衛門佐とのへ*6
(三、2506号。なお読点の位置を文書集と一部替えた)
(書き下し文)
一、陸奥守、肥後にこれある者ども曲事にあらず候あいだ、その分その分に知行下さるべく候条、熊本に堪忍仕るべきこと、
(大意)
一、肥後にいる地侍たちに落ち度があったわけではなく、それぞれ分相応に知行地を与えていたので、成政は熊本で折り合いをつけながらうまくやっていくべきだった。
くどいが天正16年の暦を掲げておいた。小の月が6ヶ月、大の月が7ヶ月あるので年間日数は
(6ヶ月*29日間/月)+(7ヶ月*30日間/月)=384日間
となり、大晦日は12月29日である。史料では各月末日を「晦日」と記すので29日なのか30日なのか逐一確認する必要がある。一方ユリウス暦、グレゴリオ暦の1588年はともに366日間で、大晦日は12月31日である。天正16年と1588年の1年間の日数差は18日間で天正16年の方が長く、平年だと354~355日間となり逆に10~11日程短くなる。閏年の周期がそもそも異なるので比較すること自体に意味はもちろんない。
Table.1 天正16年カレンダー
本文に入る前に同日付文書の充所一覧を掲げておいた。これだけ大量にあると長文なだけに文言の異同も多いが趣旨は異ならない。
Table.2 閏5月14日付発給朱印状充所一覧(再掲)
下線部では秀吉みずからが本領を安堵したり、新恩を給与した肥後の地侍たちに非はなく、成政の仕置に問題があったと述べている。
これだけ長々と大名たちに充てて述べているところから、本文書は成政の処罰を「私怨によって専横的に行った」との印象だけは避けたかったと考えられる。言い換えればこの処罰がいかに「公平に、公儀として」行われたものであるかを強調しているわけである。成政の処分は豊臣政権にとってかなりセンシティブな問題だったのであろう。
秀吉による印象操作が奏功したかどうかについては分からない。また現実には重臣たちによる合議制ではなく、秀吉による専制的支配が行われていたと見るべきだろう。
それにしても書面で自身を「殿下」と呼び、「思し召され」などと自敬表現を多用する秀吉が、実際に対面する場で大名たちにどのような言葉遣いで話しかけていたのか気になるところである。
似たような疑問を抱いたのはブログ主だけではなさそうで、牧英正氏は次のように指摘している。
最後に、永正15(1518)年に成立した『閑吟集』の中から小歌をひとつあげておこう。
人かひ舟は沖をこぐ、とても売らるる身を、ただ静かに漕げよ、船頭殿
豊臣秀吉は北条征伐の小田原陣のおり、家康等と酒席でこの唄をうたったという。どのような顔でうたったのであろうか。
(牧英正『人身売買』岩波新書、1971年、46頁。なお下線による強調は引用者)