十月廿一日*3(朱印)安国寺*4(三、2363号)(書き下し文)肥後国侍、同じく百姓以下申し分これあるにおいては、聞き届け言上を遂ぐべく候、聞し召し届けられ御下知を加えらるべく候なり、(大意)肥後国人一揆に加わっている侍や百姓たちに言い分があるのなら、よく聞きこちらへ報告するように。よく話を聞いた上で判断を下すものである。
秀吉はこの時点でも肥後の「侍」や「百姓」たちに言い分があるのならば、聞き届けた上で下知を下すと恵瓊に伝えている。武力で殲滅しようとすれば次のような代償を負うことになると考えたからであろう。
- 武器弾薬も調達せねばならないし、なにより味方の将兵を失うリスクが大きいためである(物的・人的資源の損失)。
- 敵兵を殲滅すれば耕作する労働力を失い、田畠は荒廃する。百姓を原則移住させない豊臣政権の方針から、他国の余剰労働力に期待することはできず、荒蕪地として放置することになってしまう。それでは家臣への知行宛行はできなくなるし、蔵入地もおけなくなる(耕作・開発可能な土地=政権基盤の損失)。
- 訴訟ルートを備えておくことで「紛争の調停者」となることはできるが、武力制圧のみでは「公儀」を称することはむずかしくなる(公的権力の私的権力化)。
秀吉が九州制圧に乗り出した口実を再確認しておこう。
関東は残らず奥州まで綸命*5に任され、天下静謐のところ、九州のこと今に鉾楯*6の儀、然るべからず候条、国郡境目相論、互いに存分の儀聞し召し届けられ、おって仰せ出さるべく候、まず敵味方とも双方弓箭を相止むべき旨、叡慮*7に候、
(二、1640号)天正13年10月2日島津義久宛豊臣秀吉判物 - 日本中近世史史料講読で可をとろう
天皇の命を受けて関東や奥羽まで「天下静謐」であるのに、九州ではいまだに国郡境目相論を武力で解決しようとしていてよろしくない、という趣旨である。この文言はもちろん秀吉の圧倒的軍事力を背景にしたもので、それを装うための粉飾に満ちあふれ、「関東は残らず奥州まで」にいたっては見え透いた虚言であることはいうまでもない*8。しかしそうした粉飾を施さねばならないという点は重要である。
「私的な」武力に「公的な」装いを凝らして公的権力として立ち現れるというのは、秀吉に限らず古今東西普遍的に見られる現象である。