日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正15年10月27日某宛豊臣秀吉朱印状

今回はかなりの長文であるが、秀吉が九州で直面していた諸勢力による「反乱」を俯瞰できるものなので全文掲げておきたい。充所を欠いている理由として①裁断されているなど物理的・外的原因による、②朱印を押捺したが充所を記さずにそのまま発せられることがなかったなど文書発給手続き上の原因による、③そのほかの理由など様々考えられるが、原本の写真版が見つからなかったので重要であるがここでは措く。

 

 

 去十四日之書状、今日廿七於大坂加披見候、

 

一①、至南関*1長〻令在陣、有動*2付城*3へ兵粮・玉薬等指籠、立花*4・高橋*5在番丈夫申付、隈本へも通路輙*6之由、雖不始于今儀候、粉骨段被感思召候事、

 

一②、豊前内城井*7・野仲*8・山田((種賢/元房))一揆令蜂起候之処、黒田勘解由父子*9懸付、数人討取由被申越候、尤候事、

 

一③、岩石*10へ一揆少〻取上候由候、定指儀在之間敷と察被思召候、此式之儀ニ上方人数被差遣候へ者、毛利右馬頭*11外聞も如何候条、輝元*12人数被相揃、無越度*13様行肝要候、

 

一④、厳島*14へ寄進之八木借候て、兵粮ニ出候由尤候、然者上方人数ニも不及之由、書中之旨被聞召候、弥兵粮入儀候者、重借可申候間、可被申越候事、

 

一⑤、肥後・豊前・肥前一揆起候付、国侍・牢人共古城*15へ取上*16在之由、切〻被申越候、然大敵にてあらす候条、一揆原・其外国〻牢人原之儀可被追払儀者、可安儀候間、右馬頭悉分国*17之人数を不残召連於被越者*18、何之一揆もにゑ入*19可申候哉、雖太儀候、外聞ニ者不相替物候間、はか行*20候様ニ成敗之儀可然候事、

 

一⑥、当年中ハ無余日、向寒天*21、此方ゟ遣候人数ハ痛入((困る、困難なことと感じる))候条、明春*22十五日より内ニ、御人数并始大和大納言*23被仰付、可被遣候間、為何*24一揆指起候共不苦事、

 

一⑦、輝元・隆景両人才覚ニも不成、国〻ニ被仰付被置候者共、及迷惑候付ハ、当年中ニも御自身被御出馬*25、悉可被仰付候、一揆原之事候間、不被出御馬、二万三万被遣候ても、なて切*26之儀者可安と被思召候へ共、当年何にも長陣被仰付、痛被思召候条、各人数同前御骨をおらせられ、被出御馬候へハ、諸軍勢及迷惑間敷*27候間、さて右之分被思召候、此由輝元・隆景*28両人へも可被申伝候、雖為寒天之刻、御陣触*29にも及間敷候之条、其方一左右次第*30可被出御馬候、其方事打続辛労候、尚追〻可被仰由候也、

 

  十月廿七日*31 (朱印)

 

 (充所欠)

 

(三、2376号)

 

 

(書き下し文)

 

 去る十四日の書状、今日廿七大坂において披見を加え候、

 

一①、南関にいたり長〻在陣せしめ、有動付城へ兵粮・玉薬など指し籠め、立花・高橋在番丈夫申し付け、隈本へも通路たちまちのよし、今に始まらざる儀に候といえども、粉骨の段感じ思し召され候こと、

 

一②、豊前内城井・野仲・山田一揆蜂起せしめ候のところ、黒田勘解由父子懸け付け、数人討ち取るよし申し越され候、もっともに候こと、

 

一③、岩石へ一揆少〻取り上り候よしに候、定めて指したる儀これあるまじくと察し思し召され候、これしきの儀に上方人数差し遣わされそうらえば、毛利右馬頭外聞もいかがに候条、輝元人数相揃えられ、越度なきようてだて肝要に候、

 

一④、厳島へ寄進の八木借り候て、兵粮に出し候よしもっともに候、しからば上方人数にも及ざるのよし、書中の旨聞し召され候、いよいよ兵粮入る儀にそうらわば、かさねて借り申すべく候あいだ、申し越さるべく候こと、

 

一⑤、肥後・豊前・肥前一揆起こり候について、国侍・牢人ども古城へ取り上りこれあるよし、切〻申し越され候、しかりて大敵にてあらず候条、一揆原・そのほか国〻牢人原の儀追い払らるべき儀は、安んずべき儀に候あいだ、右馬頭ことごとく分国の人数を残らず召し連れ越さるにおいては、いずれの一揆もにえいり申すべく候か、太儀に候といえども、外聞には相替らざるものに候あいだ、捗行き候ように成敗の儀然るべく候こと、

 

一⑥、当年中は余日なく、寒天に向かい、此方より遣わし候人数は痛み入り候条、明春十五日よりうちに、御人数ならびに大和大納言をはじめ仰せ付けられ、遣わさるべく候あいだ、なんすれぞ一揆指し起こり候とも苦しからざること、

 

一⑦、輝元・隆景両人才覚にも成らず、国〻に仰せ付けられ置かれ候者ども、迷惑に及び候については、当年中にも御自身御出馬なされ、ことごとく仰せ付けらるべく候、一揆原のことに候あいだ、御馬出されず、二万三万遣わされ候ても、撫で切りの儀は安んずべくと思し召されそうらえども、当年何にも長陣仰せ付けられ、痛み思し召され候条、おのおの人数同前御骨を折らせられ、御馬出されそうらえば、諸軍勢迷惑に及ぶまじく候あいだ、さて右の分思し召され候、このよし輝元・隆景両人へも申し伝えらるべく候、寒天の刻たりといえども、御陣触にも及ぶまじく候の条、その方一左右次第御馬出さるべく候、その方こと打ち続く辛労に候、なお追〻仰せらるべくよしに候なり、

 

(大意)

 

 先日十四日付の書状、今日廿七日大坂にて拝見しました。

 

一①、肥後南関での長期にわたる在陣、城村城へ兵粮・弾薬を貯え、立花宗茂・高橋種元に在番を命じ、熊本への通路もすぐにできたとのこと。今に始まったことではありませんが、粉骨のいたりと思います。

 

一②、豊前の城井・野仲・山田が蜂起したところ、黒田孝高・長政父子が駆け付け、数人討ち取ったと報告したこと、もっともなことです。

 

一③、岩石城へ一揆勢が少々籠城したとのこと、大したことではないと思います。これしきのことで上方の軍勢を派遣すれば、毛利輝元の外聞にも関わるでしょうから、輝元が軍勢を率いて落ち度のないようにすることが大切です。

 

一④、厳島へ寄進した米を借りて、兵粮に充当することはもっともなことです。したがって上方から派兵するに及ばぬとの趣旨聞き届けました。いよいよ兵粮が必要となれば、かさねて借りることになるでしょうから、こちらへ報告するようにしてください。

 

一⑤、肥後・豊前・肥前一揆起こり候について、国侍・牢人ども古城へ立て籠もったと、たびたび報告がありました。しかしながら大敵ではないので、一揆勢やその他の国々の牢人たちを追い払うことはたやすいことです。輝元が分国の人数を残らず招集すれば、どのような一揆であろうとも意気消沈するでしょうから、難儀なことですが外聞に替えられるものではありません。仕置が捗るように一揆勢を成敗することは当然です。

 

一⑥、今年はもう残り少なくなりましたし、寒さも厳しくなります。こちらから軍勢を派遣するには困難ですので、明年正月十五日より前に、秀吉軍ならびに秀長をはじめとする諸大名に派兵を命じ、派遣させますので、いかなる一揆が起きようと捻り潰してやるだけのことです。

 

一⑦、輝元・隆景両人の工夫にもかかわらず、諸国に知行を充て行われた者たちが困窮していることについては、当年中にも秀吉自身が出馬し、ことごとく統治することになるでしょう。あんな一揆勢のことですから、秀吉が出馬せずとも二万三万の軍勢を派遣しただけでも殲滅させることはたやすく思いますが、当年は長陣を命じられ、さぞかし苦労されていることと思います。ですから諸大名の軍勢と同様に骨を折り、出馬すれば、諸軍勢が困難に及ぶことはなくなるでしょう。さてこのように思っておりますので、この旨輝元・隆景両人へも必ず申し伝えるように。寒天のころだからといって、陣触するほどのことでもないでしょうから、そなたの注進があり次第出馬することにします。そなたはさぞかし辛労が続いていることでしょう。なお後日命じるつもりです。

 

 

今回は②と⑤を中心に見ていく。

 

②によれば、肥後で国人たちが放棄したのに乗じて、肥前では西郷信尚が伊佐早の高城を奪還し、豊前では宇都宮氏の流れをくむ名門の城井鎮房らが、島津攻めで秀吉の軍門に降ったものの、豊前に入部してきた新領主黒田氏に反旗を翻した。このときの九州北部の状況は下図の通りである。

 

Fig.1 天正15年肥前・肥後・豊前状況図

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                     『新世紀日本地図』三省堂、1930年より作成

 

城井氏の拠点である豊前国築城郡城井谷についてはこちらで疑似体験ができる。とくに城井氏館跡は中世国人が土地に根ざしていたことを垣間見ることができ貴重である。

chikujo-rekishi.jphttp://chikujo-rekishi.jp/category/kiidani/

 

城井氏は城井川沿いに形成された城井谷各所に出城を作り、谷全体を要塞化し、さらに他の国人領主たちも蜂起するなど黒田氏は苦境に立たされることになる。

Fig.2 豊前国馬ヶ岳城と城井谷

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https://www.town.chikujo.fukuoka.jp/s047/010/110/020/070/1.pdf より作成

ところで、豊前は現在北部6郡が福岡県4郡、南部2郡が大分県となっているのでやや複雑である。簡単に図示してみた。

Fig.3 豊前国と福岡県・大分県

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                 「豊前国」『国史大辞典』より作成

Fig.4 元禄14年豊前国上毛郡小祝村

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https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11F0/WJJS07U/4062555100/4062555100200030/mp010001

Fig.5 1927年大分県下毛郡中津町小祝

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               『下毛郡史』1927年所収「大分県下毛郡略図」より作成

小祝は山国川の中州にあったため、小倉領か中津領か長期にわたって帰属が争われた。1882年上毛郡高浜村から下毛郡中津町へ編入され、同時に福岡県から大分県管轄となり現在の県境が確定した。

 

閑話休題、⑤によれば「国侍」や「牢人」たちが陸続と破却したはずの「古城」に集結しつつあるという。これは豊臣政権への武力による抵抗であって、とうてい容認できるものではない。「一揆原」、「牢人原」の「原」*32とは侮蔑的な表現で現代の「やつら」、「連中」といったような意味であるが、それだけ秀吉の怒りが尋常でなかったことを物語っている。九州仕置を済ませた直後に同時多発的に一揆が起きたわけであるから無理からぬことであろう。

 

一方でこうした「一揆原」や「牢人原」がなぜ秀吉に武力で敵対し籠城するのか、牢人たちがなぜ大量に発生するのかは重要な問題であろう。また自発的に籠城した者、強制的に籠城させられた者など籠城した勢力にも老若男女おり、必ずしも一枚岩ではなかったろう。むろん攻める側がそのような事情をくみ取るわけではない。「撫で切り」や「乱取」といった、「英雄譚」ではすまされない過酷な世界が待ち受けていたことは想像に難くない。
 

秀吉は当初九州仕置を妥協的・漸進的に行うとの方針を採っていたが、肥後国人の蜂起により「五畿内同前」とするドラスティックな政策へ方向転換した。佐々成政はパンドラの箱を開けてしまったわけである。もっともそれを機に中世的土豪勢力を一掃し、九州の近世化を加速させ、豊臣政権の権力集中に結果的には大いに貢献したのだが。

 

*1:肥後国

*2:兼元。隈部親泰の重臣

*3:肥後城村城

*4:宗茂

*5:直次

*6:

*7:鎮房

*8:鎮兼

*9:孝高・長政

*10:豊前国

*11:輝元

*12:毛利

*13:「大日本史料」天正3年1月1日条「吉川家祖先勲功覚書上」に「越度」を戦死の意味で用いている例が見える。高木昭作「乱世」参照

*14:安芸国

*15:破却した城

*16:トリアガリ。のぼること

*17:輝元領国全土から

*18:輝元の知行石高限度いっぱいの軍役をつとめれば

*19:「にえ入る」は陥没する、めり込むの意・ここでは「どのような一揆であろうとその勢いをへこませる=挫く」の意

*20:「捗が行く」で物事が進捗するの意。「歯痒い」=物事がうまくいかなくていらだたしいとは正反対の意味

*21:寒い気候。旧暦10月は冬

*22:翌年正月、旧暦1月は春

*23:豊臣秀長

*24:ナンスレゾ。「どうしてそのようことができるだろうか、いや出来るはずはない」という反語表現

*25:秀吉みずから出馬して

*26:撫で切り・皆殺し。ここでは「一揆の討伐」くらいの意味で、実際に一揆勢を殲滅するかどうかはまた別の問題

*27:秀吉みずから出陣したところで諸軍勢が困惑することはないだろう

*28:小早川

*29:陣触は出陣の命令。ここでは「御」があるので秀吉による陣触

*30:そなたのご一報次第

*31:天正15年

*32:バラ。「輩」「儕」とも