日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正16年閏5月6日北里政義ほか1名宛加藤清正下知状(1)

清正は、5月25日付の朱印状の11日後、つまり当時の交通・通信事情からいえば「ただちに」本文書を発給している。しかも朱印状をそのままなぞっているのではなく、現地の状況に即し清正なりに咀嚼している点でも興味深い。なお本文書名を「下知状」と呼ぶのは書止文言が「仍下知如件」とあることによる。

 

 

    定

 

一、国中一揆起候といへ共、去年之儀者平百性之分被成御免御検地被仰付上*1ハ、如前〻罷直*2耕作等無如在*3可仕事、

 

一、平百性一揆御赦免之上ハたがひ*4之諸道具*5取散候共*6、いしゆ*7いこん*8有間敷候、若此旨相背候者於在之者、至隈本*9ニ可申越事、

 

一、国中麦年貢之儀、御検地之上を以三分二召置、三分一ハ百姓ニ可遣之旨被仰出候、雖然諸百性迷惑*10之躰見及候条在之、其立毛*11之上ニて百性共堪忍*12続候様可申付事、

 

一、在〻出置候上使*13之者、対百性ニ非分之儀於申懸者、以目安可直訴事、付り、麦年貢納取代官之外ニ何〻*14諸役申付者共、慥之墨付*15無之候ハ、其在所之代官へ引合、其上を以諸役可相調事、

 

一、従此方何〻儀に申付候上使にて候共、非分之儀申懸候ハヽ、其上使と申事すへからす候、外之儀ニ而候共以目安可直訴候、遂糺明を堅可申付事、

 

一、麦年貢定物成*16之義、我〻直ニ相定書付を在〻肝煎に相渡候外ハ*17、少も不可有別儀候、付り隈本へつめ使之儀拾石ニ一人ツヽ可出候、若不入候而帰候共奉行に礼儀少も不可曲事、

 

一、在〻質人*18出置替之時*19礼儀に立寄候者、上使ハ不及申ニ百性まて為可曲事、付りふしん*20道具・薪等申付之時ハ、人夫数ハ百石二付而二人ツヽ隈本へ持せ可越候、右条〻相背者候者可令成敗者也、仍下知如件*21

 

天正拾六年後*22五月六日      加藤主計頭*23(花押)

 

   北里三河入道殿*24

 

   同  左馬とのへ*25

 

(『熊本県史料 中世篇第一』509~510頁)

(書き下し文)

 

    定

 


一、国中一揆起こり候といえども、去年の儀は平百性の分御検地御免なされ仰せ付けらるる上は、前々の如く罷り直り耕作など如在なく仕るべきこと、

 


一、平百性一揆御赦免の上は互いの諸道具取り散らし候とも、意趣・遺恨あるまじく候、もしこの旨相背き候者これあるにおいては、隈本に至り申し越すべきこと、

 

    (以下次回)

 

(大意)

 

    定

 

一、肥後国中で一揆が起きたけれども、昨年は平百姓の検地について免除する旨仰せになったので、前のように帰村し耕作などを入念に行うこと。

 

一、平百姓が一揆に参加したことについて秀吉様がお許しになっているのだから、百姓同士が互いに生活を破壊しつくしたとしても、恨みに思わないこと。もしこれに背いた者が現れたなら、隈本まで出向き報告するように。

 

(以下次回)

 

 

天正16年は閏年で5月と6月のあいだに閏5月が置かれる。下表のように年間385日あった。西暦でも偶然閏年に当たったので2月は29日まである。月の大小は年により変わり、現在のように固定されていない。月(moon)の満ち欠け*26が月(month)の日数を定め、大の月は30日、小の月は29日ある。なお「曜日」という概念は和暦にない。

Table.

ユリウス暦の代表的なものとしてロシアの1917年革命を例に挙げる。二月革命、十月革命はそれぞれグレゴリオ暦の3月、11月の出来事だが、現地では2月、10月にあたる。グレゴリオ暦は1582年10月に導入されたばかりである。

 

本文書の充所にある北里氏は阿蘇郡小国郷の北里村に居を構える土豪=「国衆」である。北里村の位置と地勢図を下に示しておく。

 

Fig.1 

                   『日本歴史地名大系 熊本県』より作成

Fig.2

               国土地理院「地理空間情報ライブラリー」より作成

なお、この直後の閏5月15日付で清正および小西行長に肥後国を与えている。知行地の分布を掲げておこう。

 

Fig.3

       2515号文書、国土地理院「地理空間情報ライブラリー」より作成

①では早々に帰村し耕作するよう促し、勧農を行っていて領主にふさわしい模範的な姿を見せている。また②は一揆鎮圧後の郷村の百姓間に漂う「気まずい雰囲気」を和らげるべく「意趣・遺恨あるまじく」と説諭していて興味深い。

 

加藤清正と言えばやたら武勇談ばかり採り上げられるが、こうした「きめ細やかな」在地支配を行っていた点では石田三成らのいわゆる「吏僚派」とまったく変わらないのであって、それこそが「あるべき領主像」なのである。

 

最後に本音を少々。インターネット上でいやでも目にする戦国大名の覇権を競うゲームの広告や、根拠に乏しくありきたりの想像力で創作した英雄譚に辟易しており、こうした「地に足のついた」史料を読むとなんだか救われるような気がする。惜しむらくは翻刻により読みに揺れがあるところである。

 

*1:「仰せ付けた」のは秀吉

*2:以前の状態に戻り

*3:「如在」は手抜かりや疎かにすること。「入念に」の意。今日の「如在ない」は「抜け目がなく愛想がいいこと」というどちらかと言えばネガティブなニュアンスが強い。地域によっては「ずるい」「悪賢い」という意味もある

*4:互い

*5:様々な武器、または日用品

*6:ここでは「日常生活を破壊しつくした」という意味か

*7:意趣。恨み

*8:遺恨

*9:熊本

*10:「迷い惑う」の字句通り「戸惑う」、「困窮する」、「途方に暮れる」の意

*11:収穫前の田畠の農作物。実り具合

*12:生活

*13:隈本から各地へ派遣した使者

*14:史料編纂所稿本は「仰之」と読んでいる

*15:確実な文書

*16:毎年決められた年貢

*17:直接「肝煎」宛に発給している文書に記したもの以外は

*18:「人質奉公」と呼ばれた質物奉公人。借金の担保として子女を差し出し、元本返済まで「人質」として無償で労働させる奉公形態。この無償労働が借金の利息がわりとなる

*19:奉公人が契約を更新する季節

*20:普請

*21:この「下知」は秀吉からの命。すなわちこの書止文言は「以上が秀吉様の仰せである」という意味

*22:「閏」

*23:清正

*24:政義

*25:重義カ

*26:朔望。なお数学者を主人公にしたアメリカのドラマ「numbers」でも「朔望」が登場した