一、拾人 桑田郡 へちゐん*3村
一、拾人 同 ほそかう*4村
一、弐拾人 同 のゝむら*5
一、五人 船井郡 ほんめん*6村
一、拾人 多紀郡 むらくも*7村
一、三人 氷上郡 かとのむら*8
一、三人 同 かいはら*9村
一、五人 同 くげ*10村
合六十六人
右諸役令免除、用次第可召仕者也、
天正十五年十月十六日(朱印)
野々口五兵衛とのへ*11
(三、2361号)
(書き下し文)
丹波所〻杣のこと
一、拾人 桑田郡 別院村
一、拾人 同 細川村
一、弐拾人 同 野々村
一、五人 船井郡 本梅村
一、拾人 多紀郡 村雲村
一、三人 氷上郡 葛野村
一、三人 同 柏原村
一、五人 同 久下村
合六十六人
右諸役免除せしめ、用次第召し仕うべきものなり、
(大意)
丹波国内に散在する杣に関する掟
一、10人 桑田郡別院村
(中略)
合計66人
右について諸役を免除するので、用向きがあれば使役すること。
Fig.1 丹波国桑田・船井・多紀・氷上4郡杣分布図(元禄国絵図)
Fig.2 丹波国桑田・船井・多紀・氷上4郡杣分布図(迅速測図)
下線部の「用次第召し使うべき」ことを「用がある範囲内に限定して使役せよ」ととるか、「好きなだけ使役して構わない」ととるかで意味は相当変わる。野々口がこれら杣の領主なのか代官なのか本文書のみから判断できないからである。当記事では「諸役を免除した66人について、用がある範囲で限定的に使役せよ」という意味に解釈した*12。「際限なく使役しても構わない」という意味だと、わざわざ秀吉が朱印状を発するまでもなく、またその他の秀吉の方針と反するためでもある。
図1に見えるように、このときの「村」は1世紀後の元禄期に作成された国絵図の数ヶ村規模に当たる。ひとつの「村」からいくつもの村が分かれていく、そういう過渡期でもあった。「村」とは行政単位でもあり地名*13でもあるが、生活する場でもあり団体でもあったのだ。
京都に近い丹波には平安京造営のための桑田郡山国杣、西大寺領船井郡船坂杣など朝廷や権門勢家などによる杣が置かれた。森林はいうまでもなく建築・土木・薪炭・軍事などあらゆる分野に資源を提供し、また鉄砲水などを防ぐ保水機能も併せ持つ生活の基盤であったため、古くから争いの種になった。開墾や乱伐、それにともなう災害を繰り返してもいる。
Fig.3 南桑田郡亀岡町=丹波亀山付近の砂防工事
1934年の保護林配置モデル図を掲げておく。
Fig.4 保護林配置仮想図
中心都市の北東=艮(うしとら)が鬼門に当たるため、魔除けの林を設置しているところは伝統的な都市計画といえる。著者自身は宗教的観点ではなく、衛生的側面から保護の必要性を説いているのだが。国家総動員体制から第1次石油危機までの時期には受け容れられがたい、「牧歌的な」構想だったのかもしれない。