日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正17年12月4日吉川広家宛豊臣秀吉朱印状

 

 

北条儀為誅伐、来春*1至于関東被成御進発条、其方事人数*2五百召連、二月中旬有上洛、尾州星崎城*3請取、自身可被在番候、委曲輝元*4・隆景*5相達候*6、猶浅野弾正少弼*7・黒田勘解由*8可申候也、

      極月*9四日*10 (朱印)

            吉川侍従とのへ*11

 

(四、2828号)
 
(書き下し文)
 
北条の儀誅伐のため、来春関東に至り御進発なさるるの条、その方こと人数五百召し連れ、二月中旬上洛あり、尾州星崎城請け取り、自身在番せらるべく候、委曲輝元・隆景へ相達し候、なお浅野弾正少弼・黒田勘解由申すべく候なり、
 
(大意)
 
北条征伐のため年明け早々関東に向け秀吉様が御出発なされると決まった。ついてはその方は軍勢を500名ほど召し連れ、2月中旬上洛し、尾張国愛知郡星崎城を請け取り、自身在番するように。詳しくは輝元・隆景に伝えている。なお浅野長吉・黒田孝高が口頭で申し述べる。
 

 

吉川元春に尾張国愛知郡星崎城へ500名の兵士を引き連れ在番するよう命じた文書である。尾張国は当時織田信雄の領国であり、また徳川家康の領国三河国境にもほど近い位置にあった。

 

Fig.1  尾張国愛知郡星崎城周辺図1

                        伴野辰次郎製図『最新實測 愛知県管内図』(1913年)より作成

Fig.2 星崎城跡地周辺図2

             池田陸介『(名古屋市)南区の歴史探訪』1986年より作成

Table.1  四季と月、二十四節気と雑節

                                                                「日本の暦」(国立国会図書館)などより作成

Table.2 閏12月のある年

 

 

 

 

ところで天正17年は家康領国にとって画期となる年でもあった。表3に見られるとおり諸郷村に七ヶ条からなる、統一された様式による定書が発せられたからである。家康の郷村支配の方針が明確に述べられた重要な文書なので次回採り上げるが、三河、遠江、駿河、甲斐、信濃五ヶ国の統一的な領国支配が今まさに確立せんとする瞬間でもあった。しかし周知のように秀吉は翌年関東への国替を命ずる。「大名・給人は当座の者、百姓は永代なる者」と大名の鉢植え化を秀吉は明言していたが、家康もまた鉢植え化の憂き目を見ることとなったわけである。

 

Table.3 天正17年七ヶ条定書国別・郡別発給数

          本多隆成『定本徳川家康』表12、146~147頁、2010年、吉川弘文館



*1:翌年1~3月、表1参照

*2:軍勢

*3:三河国境付近の尾張国愛知郡の城。下図参照

*4:毛利。天正17年4月太田河口のデルタ地帯に築城を始め「広島」と命名し、同19年正月本貫の地安芸吉田から移り住む

*5:小早川。天正15年筑前・筑後各1国と肥前1郡を与えられ、筑前名島城へ移る

*6:2829号文書

*7:長吉。天正15年若狭国を領し、小浜城に居城。蔵入地代官を兼ねる

*8:孝高。豊前国6郡を与えられ京都郡中津城に居城

*9:「ごくげつ」は「1年の極まる月」つまり12月。ただし表2のように12月の次に「閏12月」が来る年もあるので必ずしも年末を意味しないし、世間で謂われるほど「師走」は使われていない

*10:天正17年。グレゴリオ暦1590年1月9日、ユリウス暦1589年12月30日

*11:広家。吉川元春の三男。天正11年毛利輝元が秀吉に恭順を誓った際人質として大坂城に赴く。天正19年兄元長が病没すると、伯耆・出雲・隠岐・石見・安芸諸国に14万石を領して出雲富田城を居城とする