秀吉は5月中に九州国分を実施した。その概要は下表の通りである。
Table. 九州国分
そして6月18日著名な文書が発せられた。一般に「キリシタン禁教令」と呼ばれる文書である。翌日発せられた「バテレン追放令」とともに有名ではあるが、原本が伝わっていない上、「禁教令」から「追放令」へわずか一日で方針転換していることからその位置づけはむずかしい。また本文書集収載文書と山本博文『天下人の一級史料』*1に掲載されている写真を見くらべると発給人にあたる「御朱印」の文言がないなど講読環境が整っているわけでもない。解釈については上掲書や清水有子「秀吉はなぜキリスト教を「禁止」したのか」*2、神田千里後掲論文などを参照されたい。
本文書は「写」(コピー)と思われるもののみが、しかも伊勢神宮にのみ残されているという点でもあつかいが難しい。1698年フランスのイエズス会士ジャン=クラッセが編んだ「日本西教史」(1878年太政官翻訳官訳、原題は「Histoire de l'église du Japon」)には以下のように船長らを厚くもてなしたその夜、国外退去を命じたとあり、さらに家臣をコエリョが休む船に派遣して詰問を行ったとあるので申し渡したことは間違いなさそうである。
このときポルトガル国の非常に巨大なる一舶*3、平戸港に来着せる旨を殿下*4に告ぐる者あり、殿下はこれを一見せんと欲し、師長*5に乞い船長に命じ彼の巨舶を博多に回らしむ、船長は師長の書翰を得て、ただちに殿下の許に至り、告げて云いけるには、予*6は殿下の尊意に従い、彼の舶を博多に廻さんと欲すれども、いかんせん博多に至るには、再び大洋を経過せざるを得ざれば、船と貨物のために、みずから危険を保せざるを得ず、また海峡狭隘にして、入航もっとも難しと、殿下はこの旨を聴き、了解せるところあるがごとく厚く船長を待遇し、また宮中に居合わせし師父*7にもおなじく丁寧を示し、同夜たちまち命令状を師長に下して云わく、汝ら基督教法を説けるをもって二十日以内に日本を退去すべし、しからざれば死罪に行うべしと、この意外の変を生じ、基教中の人もそのほかの人もともに大いに驚愕せり、関白殿下はこの酷烈*8の所行を回護*9するの説を設け*10、宮人などに聞かしめて曰わく、従来基督教法は日本の教法と反対するところあるをもって、予*11はこれを廃せんと欲せしことすでに久し、しかして遷延今日にいたりしは下*12は基教信者の巣窟なるをもって、あるいは党を結んで反状*13を現わさんことを怕*14れしによるなりと、殿下かくの如き旨を設くれども、その真意はポルトガル船長が廻航を肯*15んざりしによるなり、また殿下は支那に向かって戦いを開かんとの意あるにより、彼の巨舶に類するもの二隻を要求するの意ありしを知らざるものなし、加之*16殿下果たして基督の教法を嫌悪し教徒を軽視せば、従来これを賞誉し、あるいはその信者に兵務の櫂を握らしむ*17べからざるなり、
太政官本局翻訳官訳『日本西教史』上巻、1072~1074頁
詰問の箇条は以下のようになる。
① イエズス会はいかなる理由で強制的に改宗を迫るのか。
② なぜ神社仏閣を破壊するのか。
③ なぜ仏僧とトラブルを起こして迷惑をかけるのか。
④ どうして宣教師は農耕や運搬に必要な牛を食するのか。
⑤ 日本人を「インド」に売り飛ばすことは一体誰の許可によるものなのか。
なお「日本西教史」は国会図書館デジタルコレクションで全文閲覧できる。