一①、如此被仰付上者*1、頓可被納御馬候、雖然其城用心等之儀、猶以入念堅可申付候、在所百姓以下ニ至るまて城内へ出入一切無用候、其地ニ被残置、在番*2被仰付儀者、為御用心、旁以無由断、諸事気遣専一候事、
一②、其近辺法度儀、堅可申付候、自然猥儀*3於有之者、可為曲事事、
一、最前被仰出候道・橋之儀*4、弥入念可申付候也、
五月十五日*5(朱印)
生駒雅楽頭とのへ*6
生駒三吉とのへ*7
(三、2189号)(書き下し文)一①、かくのごとく仰せ付けらるる上は、やがて御馬納めらるべく候、しかりといえどもその城用心などの儀、なおもって入念堅く申し付くべく候、在所百姓以下にいたるまで城内へ出入り一切無用に候、その地に残し置かれ、在番仰せ付けらるる儀は、御用心のため、かたがたもって由断なく、諸事気遣い専一に候こと、
一②、その近辺法度の儀、堅く申し付くべく候、自然猥りの儀これあるにおいては、曲事たるべきこと、
一、最前仰せ出だされ候道・橋の儀、いよいよ入念申し付くべく候なり、
(大意)一、以上のように命じた上でいずれ軍勢を引き上げるつもりである。しかし、そなたに預けた城の警固は入念に行うよう家臣に命じなさい。村々の百姓以下にいたるまで城内に出入りすることは禁止する。その地に残し番を命じたのは用心のためである。決して油断することなく万事専念すること。一、城周辺の地域の法度を必ず触れ出しなさい。万一治安の維持ができないときは曲事である。一、先日命じた道や橋の普請に駆り出す陣夫役、必ず命じなさい。
ほぼ同文の文書が加須屋真雄*8、遠藤胤基・慶隆宛*9にも出されている。胤基・慶隆宛には在番や法度について述べた二ヶ条①・②が省略されていることから、現地での在番はなかったようだ。一方、加須屋真雄・片桐且元宛6月2日朱印状写に熊本から博多へ向かう道中での渡河について以下のように述べている。
筑後川のこと、水深くそうらわんと思し召さるる*10ことに候、なんとなるとも御船橋*11を相懸くるべく候、さ候と舟橋懸け候事ならず候あいだ、川の瀬を踏ませ*12、人夫・子ともすなわち*13引き渡し*14候よう、分別仕り置くべく候、
(大意)
筑後川はさぞや深いことだろうから、なんとしても舟橋を架けるようにしなさい。そうであるから、人夫や子たちにも早速架橋させるなど工夫しておきなさい。
(2225号)
どの城かはわからないが、真雄・且元両名は筑後川周辺の城の在番を務めていたものと考えられる。下線部にあるように成人男性のみならず子どもたちまで徴発しようというのは珍しい。陣夫役の徴発を具体的・合理的かつ大規模に行ったのは文禄5年3月1日の石田三成である*15が「用に立たず」として「後家」、「やもめ」*16、「寺庵」などを賦課対象から控除しているのとは対照的である。庄屋が免除されているのは「庄屋給」として相殺したのだろう。対外戦争中という特殊な状況であるが参考として掲げておいた。伊香郡2ヶ村は2/3から3/4が「用に立たず」というなんとも殺伐とした状況で、対外戦争による疲弊がうかがえる。
Table. 文禄5年3月1日近江郷村宛石田三成掟書「詰め夫」負担状況一覧
Fig. 筑後川河口周辺図
親正・一正父子がどの城の在番を任されたかわからないが、城と「その近辺」=割当地域の治安維持を命じられたことは確かである。秀吉は城を軍事施設兼行政官庁へ衣替えしようとしていたとも思われる。
また百姓などの出入りを禁じているのはこれまで自由に立ち入っていたことを物語っており、戦時にシェルターとして機能していたことを示している。出入りを禁ずることで武力蜂起の芽を摘む意図があったことはもちろんだが、軍事施設でありかつ行政官庁でもある城への百姓たちの立ち入りを禁じたのは、職能的=身分的分離を明確にしたのであろう。天正19年、奉公人が新儀に百姓・町人になることを禁じているが、そのプロトタイプと見られる。
*1:九州仕置について述べてきた箇条
*2:明き城の警備に当たること
*3:秩序が乱れること
*4:「先日触のあった」がどの文書を指すかは未詳。道や橋など交通路の整備する普請のこと。すなわち陣夫役を徴発すること
*5:天正15年
*6:親正。当初信長に、のち秀吉に仕える。讃岐の国主
*7:一正、親正の息。讃岐高松城主
*8:2191号
*9:2190号。胤基は美濃木越城主、慶隆は美濃郡上八幡城主
*10:「二重敬語」の指摘あり
*11:船をならべて架橋すること、またはその橋。浮桟橋も舟橋
*12:瀬踏み、渡る前に川の深さを測ること
*13:早速に
*14:架橋すること
*15:『新修彦根市史 第五巻』「中世二・石田三成関係史料」41~49号、806~812頁
*16:漢字では「寡」、「寡婦」、「孀」、「鰥」、「鰥夫」と書き、男女を問わない。この世に寄る辺ないものを「鰥寡孤独」という