日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正16年閏5月14日小早川隆景宛豊臣秀吉朱印状(1)

 

秀吉は、信長横死のさい多数派工作のため、天正10年6月5日づけで「京より罷り下り候者たしかに申し候、(闕字)上様*1ならび殿様*2いずれも御別儀なく、御切り抜けなされ候、膳所が崎*3へ御退きなされ候」*4と中川清秀にあてて虚偽の情報を意図的に流した*5。「京よりの使者が申したことなので確かだ」というのはみずからの情報源が正規の使者によるものとして正確性を、「近江の膳所に逃れた」とは信長らが実際に逃れうる、京都近くの琵琶湖南岸の地名を挙げることで現実性や「希望」を持たせる効果があったことだろう。一方清秀は、それに一杯食わされたのか、それとも渡りに船とばかりに便乗したのか思惑は様々ありえただろうが詳らかにできない。そのあたりの事情はともかく、秀吉のデマゴーグとしての才能をそこに見出すことはできる。すでに天正11年5月15日柴田勝家を自害に追い込んだ際も、小早川隆景に宛てて戦況を詳細に記した上で「東国は氏政*6、北国*7は景勝*8まで、筑前*9覚悟*10に任せ候」*11と大風呂敷を広げている点からも想像はつく。

 

Fig.1 近江国志賀郡膳所

                   『日本歴史地名大系 滋賀県』より作成

 

天正16年閏5月14日、秀吉は佐々成政を自害に追い込むと同時に諸大名に宛てて成政を糾弾する、長文の朱印状を発した。現在残されているものは下表1の通りである。九州大名のみならず越前の長谷川秀一にも発せられているところから、成政への処罰を正当化するものであることは間違いない。逆に言えばすでに関白に上りつめていながら、諸大名に正当化する弁明を要したともいえ、「正当な支配」であることをデモンストレートする目的を持っていたともいえる。

 

Table.1 「陸奥守前後悪逆事」条々充所一覧



 

     陸奥守*12前後悪逆事

 

一、天正拾弐*13年、柴田*14(闕字)殿下*15へたいし謀叛あひかまへ*16、江州北郡よご*17表へ乱入いたし候ニ付て(闕字)関白殿自身かけ付させられ、切崩、其足にて越前北之庄*18討果させられ候処、むつのかみ*19しは*20田と令同意、越中国ニ有之、加賀国かなさわ*21の城佐久間玄蕃*22居城、柴田相果候ニより明退候処*23、陸奥守かなさわの城へかけ入、相踏*24候間、従越前直ニ御馬をいたされ、彼かなさわ城とりまかせられ候処、あたまをそり*25可被刎首由申候て、走入候間、かうべ*26をもはねさせられす、如先〻越中一国被下、飛騨国取次*27迄被仰付候事、

 

(三、2506号)

(書き下し文)

 

     陸奥守前後悪逆事

 

一、天正拾弐年、柴田殿下へ対し謀叛相構え、江州北郡余呉表へ乱入いたし候について関白殿自身駆け付けさせられ、切り崩し、その足にて越前北之庄討ち果てさせられ候ところ、陸奥守、柴田と同意せしめ、越中国にこれあり、加賀国金沢の城佐久間玄蕃居城、柴田相果て候により明け退き候ところ、陸奥守金沢の城へ駈け入り、相踏み候あいだ、越前よりじかに御馬を致され、彼の金沢城取巻かせられ候ところ、頭を剃り首を刎ねられるべき由申し候て、走り入り候あいだ、頭をも刎ねさせられず、先〻のごとく越中一国下され、飛騨国取次まで仰せ付けられ候こと、

 

(大意)

  

    成政がこの間に行った「悪逆」*28の数々について

 

一、天正12年(11年のこと)、勝家は関白殿下*29に対し謀叛を構え、近江国北郡余呉へ乱入してきたので、わたし自身が戦場へ赴き、打ち破り、さらに越前北之庄まで追い詰め討ち果たした。そこで成政は勝家と組み、越中にとどまり、加賀の金沢城主佐久間盛政が勝家自害の報に接し城を明け渡したところ、成政は金沢城を我が物とした。越前から直接わたしが出陣し、城を包囲したさい、剃髪の上斬首されてもよいと駆け込んできたので、赦免した上に、従来通り越中一国を与え、さらには飛騨国の三木自綱への取次まで任せたのである。

 

 

 

Fig.2 近江国北郡(伊香郡)余呉・丹生・称名寺

                   『日本歴史地名大系 滋賀県』より作成

 

Fig.3 五畿七道略図と中世日本の東西南北端


島津攻めにさいして作成された天正15年元日付の堀秀政宛朱印状に「羽柴陸奥侍従」と見えることから*30、成政が厚遇されていたことは確かである。西海道唯一の「大国」*31肥後を与えられたことからもその点は頷けよう。恩を仇で返されたとここで強調しているのである。

 

Table.2 西海道諸国一覧

                         「延喜式」

Table.3 「大国」一覧

 

自身を「殿下」と呼び、その「殿下」の前を一字分空白にして敬意を表す、闕字まで駆使していてそのナルシシスト振りはとどまるところを知らない。

さて秀吉は天正11年3月15日、勝家との戦時に近江国浅井郡尊勝寺村の称名寺に宛てて以下のように命じている。

 

敵陣取りに至りきっと出馬押し詰むべく候、まことに北国*32は敗軍たるべし、然る時は余呉・丹生そのほか在々所々の山々に隠れ入る土民百姓以下、ことごとく罷り出で、後を慕い*33、忠節を励まし、首を取る輩におきては、あるいは知行を遣わし、あるいは当座の隱物*34を出すべし、もし望みの儀あらば諸役免除すべく候、この旨相心得、申し触れらるべきものなり*35

(一、610号)
 
(大意)
 
敵が陣取りをしたので必ず出馬して彼らを追い詰めてやるつもりです。勝家らは敗北者です。そのさい余呉や丹生そのほかの在々所々の山に避難している土民百姓ら全員が出て来て、勝家軍を追撃し、こちらに忠節を誓うよう促すようにしなさい。首を取った者には知行を与えるなり、当座の生活に必要な物なりを与える。また希望する者の諸役は免除する。この趣旨をよく心得た上で、土民百姓らに伝えるように。
 
 

 

秀吉と勝家が戦火を交えた際周辺の村々の者は避難していることが分かる。こうした山深くに難を逃れていた百姓らを召し出し、勝家追撃に利用しようとしていた点は見逃せない。これまでにも、籠城せざるをえなかった老若男女が秀吉らによって撫で切りにされたり磔刑に処せられたことを確認してきた。こうした記録や記憶に残されず、統計にすらなれなかった人々が歴史上圧倒的多数派であったことは念頭に置くべきであろう。

 

 

*1:織田信長

*2:信忠

*3:図1参照

*4:424号

*5:この時点で織田政権の乗っ取りを目的としたかどうかまでは判断できない

*6:北条、この時点で北条氏は秀吉に服属していない

*7:「北国」は北陸道諸国、特に越後を指す。図3参照

*8:上杉

*9:秀吉

*10:「格護/挌護」。支配下に置くこと

*11:705号

*12:佐々成政

*13:11

*14:勝家

*15:秀吉

*16:相構え

*17:近江国伊香郡余呉。秀吉文書では伊香郡などを「北郡」と呼ぶことがある。図2参照

*18:図3参照、以下同じ

*19:陸奥守

*20:

*21:金沢

*22:盛政。もと信長家臣でのち勝家に属す

*23:勝家自害後秀吉から降伏するようすすめられたが拒絶し、斬首された

*24:押さえ

*25:剃髪することで謝罪の意思を示すことはごく最近まで行われていた

*26:

*27:飛騨国の戦国大名三木自綱へ服属を促す取次役

*28:あくまで秀吉の言い分なので括弧=エアクオートを付した

*29:当時は関白に任じられていないので自身を「殿下」とよぶのは本来おかしい

*30:2072号

*31:諸国を「大上中下」と4等級に格付けした最上級クラス

*32:勝家軍

*33:逃げた者を追う、追跡する。「上杉家文書之三」307頁に「敵慕い候ところ、押し返し数十人討ち捕る」とあるのは「敵が追撃してきたが、押し戻し数十人討ち取った」の意

*34:「音物」。上位の者が下位の者に与える物、当座の生活に必要な物を与えよという意味

*35:称名寺は代官だった