日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正15年2月8日小出秀政宛豊臣秀吉朱印状写

 

 

播州高砂*1尾藤甚右衛門尉*2知行分弐千六百石事、田地□(等)不荒候様肝煎*3可申付事専一候也、

   天正十五

     二月八日(朱印影)

       小出甚左衛門尉とのへ*4

 

(三、2098号)

 

(書き下し文)

 

播州高砂尾藤甚右衛門尉知行分弐千六百石のこと、田地など荒れず候よう肝煎申し付くべきこと専一に候なり、

 

(大意)

 

 播磨国高砂の尾藤知宣知行分2600石の土地について、田地などが荒廃しないように手配することが重要である。

 

 

 

 Fig. 播磨国加古郡高砂周辺図

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                   『日本歴史地名大系 兵庫県』より作成

 

本文書は字面のみを追うだけならそれほどむずかしくない。しかし、随分と奇妙な文書でもある。

 

「大日本史料」の速報版・ダイジェスト版である「史料総覧」は本文書をもって「秀吉、小出秀政に播磨高砂の地を宛行う」*5との綱文を立てているが、当ブログではこれを採用しない。

 

第一に本文書は知行充行状と様式も文面もまったく異なるし、「肝煎申し付くべきこと」を知行充行文言と解釈するのは無理があるためである。

 

第二に「尾藤甚右衛門尉知行分」とあるように尾藤知宣の知行権はまだ知宣の手を離れていないからである。

 

第三にこの年の10月14日「播磨国高砂村・同近辺尾藤分弐千五百石、加増として扶助せしめおわんぬ」*6と菅達長に「尾藤分」2500石が充て行われている点からも、この当日まで知宣の手を離れていない第二の解釈を支持するものといえる。100石ほど帳尻が合わないが写し間違えもありうるし、またこの程度の「誤差」は珍しくないので問題ないだろう。

 

以上三点から本文書を秀政への知行充行状と見る解釈は斥けたい。

 

ところで前年の12月24日毛利輝元および龍造寺政家に充てた朱印状において秀吉は、千石秀久の闕所地である讃岐の「奉行」を知宣に命じている旨記している*7。つまり闕所地を次の領主に充行うまでの間預かるわけである。当然田畠が荒廃しないようにすることもその務めのひとつである。

 

したがって本文書は知宣が九州に派兵されている留守を小出秀政に任せたとするのが妥当だろう。3月4日、秀吉は加古川の渡船に関わる「人夫」を集めるよう秀政に命じており、軍事的な目的もあったことから*8、この留守を別の大名に任せる例外的な事例でもある。

 

本来知行地は自身で経営するもので、給人手作地も珍しくなかった*9。戦場に赴いたからその留守を他の者に委ねるというのは「一所懸命」という原則に反してもいる。ただ秀吉家臣に大名出身者が少なかったためこうしたパターナリスティックな政策を選択せざるを得なかったのだろう。秀吉の、家臣に対するパターナリズムはしばしば見られるところである。 

 

*1:加古郡、下図参照

*2:知宣

*3:村役人の「肝煎を命ぜよ」のように解釈しても意味は通るが、ここでは「世話をする」、「面倒を見る」の意と解釈した

*4:秀政。天正13年和泉国岸和田城主3万石

*5:『史料総覧』巻12、152頁。1953年

*6:2350号

*7:2065~2066号

*8:2107号

*9:荻生徂徠は「政談」において「元来武家の知行所に居住したる時、召し使いたる譜代のものは百姓に近き者なり」(岩波文庫版、66頁)と現状を憂う郷愁めいた心情を吐露している