為在京之堪忍*1分*2、於上方壱万石宛行訖、所付*3儀者来春可被仰付候*4、当年者以物成*5半納分*6、八木*7五千石被下候条、各支配在之、堪忍方相続*8候様可然候也、
天正十五
十月十四日(花押)
島津修理大夫*9
とのへ
(三、2354号)
(書き下し文)
在京の堪忍分として、上方において壱万石宛行いおわんぬ、所付の儀は来春仰せ付けらるべく候、当年は物成半納分をもって、八木五千石下され候条、おのおの支配これあるべく、堪忍方相続候よう然るべく候なり、
(大意)
在京中の賄料として上方にて1万石充行ったところである。所付などは来年春(1~3月)に申し付ける。今年は年貢「半納分」すなわち5000石を米にて遣わすのでしっかり管理しなさい。
Fig.1 摂津国能勢郡・豊島郡
Fig.2 播磨国神東郡・揖東郡・揖西郡
本文書は、大名が上洛している間の経費を賄うための土地=在京賄料を上方にて与えるという知行充行状である。本文にあるようにこの年具体的な土地を与えず、収公量に相当する米5000石を現物にて秀吉が支給している。
これはあくまでも一時的な措置で翌年実際に郷村が充行われている。これらの土地=「一所懸命の地」を自身の力で切り盛りするのが本来の武家の姿である。
前回加藤清正らに宛てた米切手は以下のように解釈すべきだったようなので改めたい。
Fig.3 秀吉から義久への米の流れ