九月二日*6(朱印)中川藤兵衛とのへ*7『秀吉文書集二』1611号、223頁(書き下し文)わざわざ申し遣わし候、②豊島・太田両郡に給人相付け候、しからば郡〻在所につき引き渡すべく候の条、両郡の案内者早〻相越すべく候、由断なく夜日を継ぎ差し越すべく候なり、なおもって①帳面はこの方へ上帳に候あいだ、郡〻在所案内者相越すべく候、以上、(大意)書面をもって申し入れます。②豊島・太田両郡において給人に知行地を与えることになりました。そういうわけですから、在地の引き渡しに必要な現地の案内者を早急に派遣してください。油断なく夜を昼に継ぎこちらへ向かわせるようにしてください。なお、①「帳面」はこちらへ差し出すものですので、案内人を遣わしてください。
摂津国は郡域・郡名ともに変化がめまぐるしく、下表のように複雑な経緯をたどる。中世後期以降権力も分散し、戦国大名のように国レベルを統一的に支配する者も現れなかった。この点では秀吉も、徳川将軍家もまた同様で明治にいたるまで「非領国地域」を「解消」することはなかった。
Fig. 摂津国豊島・太田両郡関係図
Table. 摂津国郡域・郡名変遷
天正13年閏8月以降、秀吉は家臣の知行替えを一斉に行う。いわゆる「大名の鉢植え化」と呼ばれるもので、武家と在地を切り離す「兵農分離」*8の一環である。
中川秀政は摂津茨木城を根拠とする国人領主であったが、このとき播磨国三木郡、加東郡に6万5千石余を与えられた。そのさい「引継」を行うにあたって在地の事情に詳しい「案内者」を急ぎ派遣するよう促したのが本朱印状である。
検地では現地に役人が赴き、住人に案内させるが、ここでは「早々相越すべく候」とあるのでおそらく「案内者」を呼び寄せ、口頭で処理をすませたものと見られる。