小倉*1・香春*2之間道橋、百姓共召出、肝煎宮木長次郎*3相談、入念可相作候、又其方事、馬岳*4より七曲坂越*5、秋月*6通*7路次事候者、間之百姓共申付、奉行相付、早〻可作之候、不可由断候也、
秀吉御朱印
三月廿九日*8
片桐東市正とのへ*9
(三、2137号)
(書き下し文)
小倉・香春のあいだの道橋、百姓ども召し出し、肝煎宮木長次郎相談じ、入念相作るべく候、またその方こと、馬岳より七曲坂越、秋月通路次ことそうらわば、あいだの百姓ども申し付け、奉行相付け、早〻これを作るべく候、由断すべからず候なり、
(大意)
小倉・香春間の道や橋、百姓たちを徴発し、肝煎である宮木豊盛とよく相談して入念に普請するように。またそなたは、馬が岳より七曲峠を経て秋月へ進むのなら、その道中の村々にすむ百姓たちに命じ、普請奉行を付け、早期に完成させない。くれぐれも油断のないように。
Fig.1 豊前国小倉・香春、筑前国秋月周辺図
Fig.2 七曲峠周辺図
まず宮木豊盛について。下表のように検地や兵站といった豊臣政権の基盤を担う者だったようだ。
Table. 宮木豊盛簡易年表
本文書は宮木豊盛とよく話し合った上で、小倉・秋月間の道路網を整備することを命じたものである。
下線部にあるように百姓を徴発して(陣夫役)事に当たらせた。75㎞にも及ぶ距離、しかも七曲峠のように1960年代までヘアピンカーブが連続するほどの交通の難所である。百姓への負担は相当なものだったはずである。秀吉らの軍勢が九州を攻略するにあたってこうした労働力の大量動員に大きく依存していたことは念頭に置くべきことだろう。
(参考)登録有形文化財仲哀隧道の動画