日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正15年3月29日片桐且元宛豊臣秀吉朱印状写

 

 

小倉*1・香春*2之間道橋、百姓共召出、肝煎宮木長次郎*3相談、入念可相作候、又其方事、馬岳*4より七曲坂越*5、秋月*6*7路次事候者、間之百姓共申付、奉行相付、早〻可作之候、不可由断候也、

      秀吉御朱印

  三月廿九日*8

    片桐東市正とのへ*9

 

(三、2137号)

 

(書き下し文)

 

小倉・香春のあいだの道橋、百姓ども召し出し、肝煎宮木長次郎相談じ、入念相作るべく候、またその方こと、馬岳より七曲坂越、秋月通路次ことそうらわば、あいだの百姓ども申し付け、奉行相付け、早〻これを作るべく候、由断すべからず候なり、

  

(大意)

 

 小倉・香春間の道や橋、百姓たちを徴発し、肝煎である宮木豊盛とよく相談して入念に普請するように。またそなたは、馬が岳より七曲峠を経て秋月へ進むのなら、その道中の村々にすむ百姓たちに命じ、普請奉行を付け、早期に完成させない。くれぐれも油断のないように。

 

 

 Fig.1  豊前国小倉・香春、筑前国秋月周辺図 

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                   『日本歴史地名大系 福岡県』より作成

 Fig.2 七曲峠周辺図 

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                 Google Mapより作成

まず宮木豊盛について。下表のように検地や兵站といった豊臣政権の基盤を担う者だったようだ。

Table. 宮木豊盛簡易年表 

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                「大日本史料総合データベース」より作成

 本文書は宮木豊盛とよく話し合った上で、小倉・秋月間の道路網を整備することを命じたものである。

 

下線部にあるように百姓を徴発して(陣夫役)事に当たらせた。75㎞にも及ぶ距離、しかも七曲峠のように1960年代までヘアピンカーブが連続するほどの交通の難所である。百姓への負担は相当なものだったはずである。秀吉らの軍勢が九州を攻略するにあたってこうした労働力の大量動員に大きく依存していたことは念頭に置くべきことだろう。

 

(参考)登録有形文化財仲哀隧道の動画

 

www.youtube.com

*1:豊前国企救郡、図1参照

*2:同田川郡

*3:豊盛

*4:豊前国京都(ミヤコ)郡

*5:豊前国田川郡と京都郡の郡境にあった七曲峠、図1・2参照

*6:筑前国夜須郡

*7:秋月街道。豊前小倉・筑後小郡間を結ぶ街道

*8:天正15年

*9:且元。「市正」は「市司」の長官。東西に置かれた。「東市正」は左京職に属する