日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正14年1月23日安国寺恵瓊・黒田孝高宛豊臣秀吉朱印状(訂正:天正15年)

 

筑前国博多津*1再興事聞召候、然者帰着之者家事、何方雖有之、彼津へ可引越候、地下人還住候様可申付候也、

   正月廿三日*2(朱印)

      安国寺*3

      黒田勘解由とのへ*4

              

(三、2084号)
 
(書き下し文)
 
筑前国博多津再興のこと聞こし召し候、しからば帰着の者の家のこと、いずかたにこれあるといえども、彼の津へ引き越すべく候、地下人還住候よう申し付くべく候なり、
 
(大意)
 
 筑前国博多津再興の話は確かに承った。帰り着くべき者たちの家がどこにあろうと博多へ移り住むべきである。したがって地下人たちに還住するよう命じなさい。
 

 

Fig. 筑前国博多周辺図

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                   『日本歴史地名大系 福岡県』より作成

本文書は博多津の「再興」を安国寺恵瓊・黒田孝高に命じた朱印状である。「再興」とあるように度重なる戦乱で港湾都市博多は荒廃していたらしい。つづいて「地下人」をどこに住んでいようと還住させよと述べている。つまり、避難先で新たな生活を始めていても構わず博多に連れ戻せという意味である。秀吉の意図は記されていないが、博多復興を最優先したことは間違いない。

 

博多復興、つまり大陸との交易によるメリットと人々の生活を秤にかければ、前者を優先するというのはいかにも計算高い秀吉らしい選択である。

 

*1:下図参照。薩摩国坊津、伊勢国安濃津とともに「日本三津」、「三箇の津」と呼ばれる港湾だった。安濃津は浜名湖が汽水湖となった明応7年の地震で壊滅。「安濃津」と「津湊」は併用されていて、現在の地名は「三重県津市」。付近には「度重なること」、「ずうずうしい」、「身勝手な」という意味の「アコギ」の語源となった「阿漕浦」がある

*2:天正1415年

*3:恵瓊

*4:孝高