日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正13年閏8月13日脇坂安治宛豊臣秀吉朱印状を読む

(折紙)

態申遣候、仍神子田半左衛門尉*1事、対主君口答、剰構臆病背置目奴原*2思召出*3候へ者、御腹立不浅候之条、高野*4をも相払候、成其意、半左衛門尉事ハ不及申、不寄妻子共一人成共於拘置者、其方共以分国中可追払候、同秀吉違御意候輩、如信長時之、少々拘候へとも、不苦空憑於許容者、旁可為曲事候、下々へも念を入、堅可申聞候者也、

    壬*5八月十三日*6(秀吉朱印)

           脇坂甚内*7とのへ

 

                たつの市立龍野歴史文化資料館「脇坂家文書集成」29号文書、31頁

 

 

(書き下し文)

 

わざわざ申し遣わし候、よって神子田半左衛門尉のこと、主君に対し口答えし、あまつさえ臆病を構え置目に背く奴原思し召し出で候へば、お腹立ち浅からず候の条、高野をもあい払い候、その意をなし、半左衛門尉のことは申すに及ばず、妻子どもによらず一人なりとも拘え置くにおいては、その方ども分国中をもって追い払うべく候、同じく秀吉御意を違え候輩、信長の時のごとく、少々拘え候へとも、苦しからずと空憑み許容するにおいては、かたがた曲事たるべく候、下々へも念を入、かたく申し聞くべく候ものなり、

 

 

 

(大意)

神子田正治は、主君に口答えし、その上臆病風に吹かれ、決まりに背く連中であることを思い出されたので、お腹立ちは大変なものですから、高野山を追放しました。その命にしたがい、正治本人はもとより、妻子など縁者を一人でもかかえ置いた場合は、そなたの分国中から追放しなさい。同様に秀吉様の御意に背く者は、信長の時代と同様に、短期間かかえ置いても大丈夫とあてにさせるようなことを認めることは曲事である。下々の者へもよくよく申し聞かせるようにしなさい。

 

  

「思召出」「御腹立」「御意」と秀吉自身に尊敬語が使われていて尊大な雰囲気が漂う文書である。

*1:神子田正治

*2:やつら

*3:「思出」の尊敬語、思い起こされる

*4:高野山

*5:

*6:天正13年

*7:安治