為(闕字)御意*1申入候、各在高麗奉公人下〻*2、自然*3退屈*4候而走*5候者も可有之候条、左様之族、聞付次第可有成敗候、若勾置、何角違乱之輩於有之者、可被申上候、急度可被(闕字)仰付旨、以御朱印被(闕字)仰出候、其御心得尤存候、恐惶謹言、
浅野弾正少弼
五月三日 長政(花押)
稲葉兵庫頭
重通(花押)
羽柴薩摩侍従殿*6
御陣所
「島津家文書之四」1751号、213~214頁
(書き下し文)
御意として申し入れ候、おのおの高麗にある奉公人下〻、自然退屈候て走り候者もこれあるべく候条、左様の族、聞き付け次第成敗あるべく候、もし勾え置き、なにかと違乱の輩これあるにおいては、申し上げらるべく候、急度仰せ付けらるべき旨、御朱印をもって仰せ出だされ候、その御心得もっともに存じ候、恐惶謹言、
(大意)
秀吉様のお考えとして申し入れます。それぞれの陣中の奉公人が戦場ですべき義務を怠り、逃亡する者も現れていることについて、こうした者がいたならば見聞き次第成敗しなさい。もし、奉公人の中であれこれという者は、上申してください。かならず成敗されるとの朱印状が出されるでしょうから、その点お含み置きください。謹んで申し上げました。
年未詳であるが、文禄2年ころの状況であろう。「奉公人下〻」と呼ばれる者たちが現地で多数逃亡している様子がうかがえる。また徴発に応じた者の中にも「なにかと違乱の輩」がいたようで、秀吉軍の士気は必ずしも高くなかったようだ。