こちらによった
形式は折紙・・・「折紙付」の折紙は古文書の一形式の「折紙」に由来する。この折り線に沿って切り離した場合「切紙」二葉となる。
*いまは「包紙ウワ書」でいいのだが、単語登録してしまったのでこれで通すことにする。
*(包紙ウハ書)
「 直江山城守兼続 」
以上
今度百性返候
儀入精候由奇特候
為褒美知行
百石出置候、弥以百性
帰服候様ニ才覚可
致者也、
慶長八年
二月廿八日 兼続(花押)
佐藤新右衛門とのへ(書き下し文)
このたび百姓返し候儀、精を入れ候よし奇特に候、褒美として知行百石出し置き候、いよいよもって百姓帰服候ように才覚致すべきものなり、以上
慶長八年
二月廿八日 兼続(花押)
佐藤新右衛門とのへ
(大意)
このたび百姓を帰村させたこと、大変苦労したそうだが感心なことだ。その褒美として知行地を百石与える。今後も百姓が付き従うように心がけなさい。以上の通りである。
宛所の位置が差出人とほぼ同じ位置にある。現代の手紙のマナーでは失礼にあたるが、当時はこうしたところに人間関係が直接反映された。
また敬称が「とのへ」になっている。
「殿」:年未詳8月9日北条氏政自筆書状は
「とのへ」:年未詳8月28日加藤清正書状は
ともに
http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/shipscontroller
から引用した。
どちらが崩れているのかよくわからないが、こういった文字の位置や大きさ、敬称の違いによっても人間関係の差が現れる。
この文書は上記の解説にあるとおりで「おんな城主直虎」や「西郷どん」でもおなじみの、逃散した百姓を帰村させた手柄に対して褒美を遣わすという趣旨である。
「いよいよもって百姓帰服候ように才覚致すべきものなり」とあるように大名や領主は、百姓を村に根づかせることに傾注していた。