当地子*3之儀ニ付而、自各*4折紙被付*5と之由候、則彼方へ以折紙申*6候、定而不可有異儀候哉、御代〻御下知并朱印*7分明*8之儀候間、如前〻*9彼院*10へ可納所候也、
木下藤吉郎六月廿六日*11 秀吉(花押)
上京*12
武者少路*13
百姓中
『秀吉文書集』一、900号、286頁
(書き下し文)
当地子の儀について、おのおのより折紙付けらるるのよしに候、すなわち彼の方へ折紙をもって申し候、さだめて異儀あるべからず候や、御代〻御下知ならびに朱印分明の儀に候あいだ、前〻のごとく彼の院へ納所すべく候なり、
なおもって安楽光院数十年当知行の儀に候あいだ、誰〻違乱候とも、相違あるべからず候、以上、
(大意)
武者小路の地子について、あなた方は根拠となる文書をお持ちとのこと。そこでこちらも安楽光院へ文書にて申し伝えたので、きっとそなたたちが異議を差し挟むことはないだろう。代々の御下知ならびに信長よりの朱印状で明白なので、以前の通り安楽光院へ地子を納めるように。
なお、安楽光院が当地を数十年にわたって当知行していることは明らかであるので、誰が横合いから異議を申し立ててもこの決定の通りにしなさい。以上。
Fig. 武者少路・安楽光院位置略図
織田信長は元亀4年7月上京を焼き払ったのち地子銭を免除する旨の朱印状を発給しているので*14、6月26日付で地子を以前の通り納めるべき旨を伝えた本文書の下限は元亀4年となる。上限の推定については考えが及ばなかった。
武者小路の位置は上図の通りで、京十四町組を構成する「町」(チョウ)であった。
武者小路を誰が支配しているのかという問題は常磐井宮家の断絶や寺院名の変遷、混乱もあって明確にできない点が多いが、武者小路の「百姓」が事を構えて地子銭を納めない状況が続いていたことを示す室町幕府奉行人連署状が発給されている*15。
ここで彼らが「百姓」と呼ばれている点は注意したいが、一方で「組町」の構成員として惣有財産を持ち、寄合に関する決まりを定め、「月行事」(ガチギョウジ)という当番制にしたがって申し送りをしていたことも確認できる。
本文書では武者小路百姓らが「おのおのより折紙付けらるるのよしに候」とあるように主張の拠り所を文書=「折紙」に求めたことに対し、秀吉も「すなわち彼の方へ折紙をもって申し候」と新たに文書=「折紙」を発給し、「さだめて異儀あるべからず候や」=「これで文句はないだろう」としたり顔でやり込めているところが興味深い。
*1:持明院の仏堂、図参照。なお「安楽行院」の前身とする説とそれを誤りとする説が辞典類では解消されていない
*2:現実に支配していること
*3:地代
*4:あなた方、武者小路百姓中のこと
*5:根拠となる文書=折紙がある
*6:文書=折紙を発給する
*7:「御代〻御下知」は室町幕府代々の下知、「朱印」は信長発給の朱印状
*8:明白なこと、疑う余地がないこと
*9:「前〻の如く」は「御代〻」を受けている
*10:安楽光院
*11:元亀1~4年
*12:山城国
*13:図参照
*14:元亀4年7月「京都上京宛朱印状」、奥野378号
*15:『大日本史料』第10編1巻、永禄11年12月29日条。同10編4巻、元亀1年6月19日条