日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

2017-01-01から1年間の記事一覧

2017年10月6日に報道された秀吉直筆の文書を読んでみる について少々弁明

昨日以下の記事を書いたが、「あり」ではなく「あか」と読み「英賀」を指すのではという話を小耳に挟んだので、弁明(=逃げ道を用意)したい。 japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com 仮名の「か」と「り」はよく似ていて、伊地知鐵男編『増補改訂…

2017年10月6日に報道された秀吉直筆の文書を読んでみる

本日もまた秀吉直筆の文書が見つかったと報道された。 www.kobe-np.co.jp 画像は2017年10月6日17時付神戸新聞より https://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201710/p1_0010619903.shtml 五人ふちありけんハ に出し可申候 なり 天正十三月十日 (秀吉花押) 甚…

石田三成島津分国検地掟写を読む その3

以下の記事の続きを書いてみる。 japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com (四条目) 一、藪之事、其藪々々ニて、とし々々ニ十分一きり十分一之内を藪主ニ十分一可遣之候、 たとへハ百本在之やぶニて…

足半草履についての追加情報

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com 上の記事で紹介した、「足半草履」がNHKBSプレミアム「偉人たちの健康診断」10月5日放送分において紹介されました。出演者が実際に履いてみるという貴重なシーンもありますので、再放送をご覧になる機会があ…

天正14年正月19日発給豊臣秀吉文書に見る「侍」

天正14年(1586)1月19日、豊臣秀吉は「奉公人につき定め」と後世呼ばれる文書を大量に発した。 定 一、諸奉公人、侍之事ハ不及申、中間・小者・あらしこに至まて*1、其主にいとまを不取出候儀、曲事に候之間、相抱へからす、但前の主に相届、聢合点在之ハ是…

2017年7月発見の織田信長朱印状を読んでみる

2017年は織豊期史料の当たり年ではないかと思うくらいに新発見が相次いだ。今日はこの記事にある文書を読んでみる。 www.nikkei.com 御園之内神田郷所務之事、米銭小成物方并保内之内御来被官九人等澤与助如当知行宛行畢、皆一職申付上者、人夫役諸役令免許…

石田三成島津分国検地掟写を読む その2

引き続き文禄3年「石田三成島津分国掟写」を読んでいく。 (三条目) 一、綿之事、兎角公方へ上り可申物ニ候間、米成にても又綿にて成共、百姓も迷惑不仕様ニ、又公方之失墜も不行様ニ、其所之桑之有様躰見合つもり候て、帳ニ可書載候、然上者、桑之在之屋敷…

新発見光秀書状に関する藤田達生氏の詳細な解説=プレスリリース

藤田達生氏による今回の発見について詳しい解説がプレスリリースとして公開されたので、ここにリンクを貼ることにする。 www.mie-u.ac.jp http://www.mie-u.ac.jp/R-navi/release/pdf/%E3%80%90%E4%B8%89%E9%87%8D%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E3%80%91%E3%83%97%E3%8…

永禄11年11月9日 祝田郷宛、次郎直虎・関口氏経連署の徳政に関する文書を読む

Googleで古文書を画像検索したところ、今話題の井伊家の文書が出てきた。すでに『大日本史料』第10編1冊687~688頁に掲載されているが、「百姓」は原文で「百性」となっているので、あらためて翻刻してみた。写真はこちらのサイトから引用させていただいた。…

石田三成島津分国検地掟写を読む その1

文禄3年(1594)7月16日石田三成が「薩州奉行」へあてた検地掟を少しずつ読んでみる。典拠は宮川満『太閤検地論第Ⅲ部』327~328頁(1963年、御茶の水書房)によった。 34. 石田三成島津分国検地掟写(長谷部文書) (端裏書) 「石治少様掟之写十壱ケ条」 覚…

1904年震災予防調査会による『大日本地震史料』全22巻と『附録 大日本地震史料地震目録』の紹介とダウンロード先

今から100年以上も前の1904年、全22巻および付録からなる一大史料集が刊行された。『大日本地震史料』である。本来古書店でたいそうな値段がつけられたであろうこの史料集がダウンロードできると知り、ここにそのURLを貼ることにした。 付録の地震目録は年表…

明智光秀の最期を伝える史料

明智光秀の最期を伝える史料を今日は紹介したい。引用は三鬼清一郎編『稿本豊臣秀吉文書(1)』(2005年、私家版)92~93頁「325高木文書」による。 325(高木文書) 東京大学史料編纂所架蔵影写本 御状拝見申候、如仰、今度京都不慮之仕合、無是非儀ニ候、 …

古文書を見ることができる神サイトの紹介

こういうサイトがありますのでぜひご活用下さい。 ただ著作権の問題がありますので、引用にはくれぐれもご注意を! atogaki.hatenablog.com

埋め草 古文書を学べる学部学科

文学部史学科以外で古文書を学べる学部や学科を紹介する。 工学部建築学科建築史研究室 城郭研究などはこちらの方が詳細に学べるかも知れない 理学部古気象学、古天文学、古地質学関係研究室 当時の人々の記録を読む必要があるので 理学部地理学科歴史地理学…

本能寺の変の第一報

本能寺の変直後、この事件を史料でどのように表現していたかを今回考えてみたい。史料は以前と同じ『愛知県史資料編11織豊1』から引用し、同書による史料番号と頁数を明記する。 史料1 1513.家忠日記(788頁) (六月) 三日己丑 (中略)酉刻ニ京都にて上様…

吉報! 信長と光秀関係の史料集がGoogle Appsにアップされました

これは労作かつ朗報!! @buqimingriその他 @buqimingri 信長と光秀の文書を追加した暫定版データ集をGoogleAppsに上げてみた。多分閲覧可能なはず。 docs.google.com

「新発見」光秀書状をめぐる2つの議論の温度差と各メディアの大きな勘違い 「写」と影写本は異なる!

ツイッターで「光秀書状」を眺めていると、議論は大きく2つに、しかもおそろしいほど隔たっていることに気付く。 ひとつは、すでに十分知られた文書であり、原本そのものが見つかったことは大発見だが、それ以外格別の新発見があったわけではないという流れ…

本能寺の変後の信長を「上様」「右大将家」と呼ぶ事例

『岐阜市史史料編近世一』から本能寺の変後、信長がどう呼ばれていたかを知る手がかりとして、次の2点の史料を紹介したい(いずれも877頁)。なお文書の名称は同書にしたがった。 史料1 神戸(織田)信孝禁制判物(折紙) 当寺之事、付門前、上様(織田信長…

本能寺の変直後 社会は無政府状態に陥った

『愛知県史資料編11 織豊1』史料番号1516、789頁によれば次のような混乱状態に陥ったという。 1516 十六・七世紀イエズス会日本報告集 彼は(=明智光秀)(市の)いずこにも火を放たなかったが、重臣を一人、幾らかの兵と共に同所に残して彼は予期していた…

「新発見」光秀書状の原本写真と釈文が公開されました 

「土橋重治宛 明智光秀書状」特別公開展示について こちらで光秀書状の原本写真と釈文がPDFファイルで公開されています。 またこちらもご参照ください。 藤田達生『証言本能寺の変 ー 史料で読む戦国史』(2010年、八木書店)

彙報 三重大学国際忍者研究センター 伊賀連携フィールド古文書講座受講生募集のお知らせ

www.human.mie-u.ac.jp 「国際忍者研究センター」とはこれまたなんとも…

三行半(みくだりはん)を読む

6月に以下の記事が掲載された。 digital.asahi.com これを全文翻刻してみよう。三行半はその名の通り、三行と半分で書かれるので、それも忠実に再現する。ただし変体仮名については、気分次第で通常の仮名に直したり、もとの漢字のままとした。 離縁状之事 …

石田三成ら豊臣氏四奉行による村落支配に関する指示

「関ヶ原」という映画が好評で盛り上がっているようだ。そこでスケベ心から(新規参入のブログを目立たせるにはミーハーであることが第一)しばらく石田三成関連の史料を読んでいくことにする。若い女性に人気があると仄聞するが、それらのご期待に添えるも…

関ヶ原の戦後処理 慶長5年(1600)9月21日の「禁制」(岐阜県養老町指定文化財)

本日は、映画公開が近いといわれる公開されている関ヶ原の戦後処理に関する史料を読みたい。合戦が9月15日だから6日後に村々に宛てて出された触である。 www.tagizou.com 禁制 哥村 金谷村 嶋田村 直井村 大塚村 一、軍勢甲乙人等濫妨狼藉之事、 一、放火之…

自然災害と歴史学 日本のポンペイ 生死を分けた十五段 天明3年浅間山噴火

2011年3月11日に起きた東北地方太平洋沖地震、それによって引き起こされた東日本大震災以降、にわかに災害史が注目されるようになった、と世間では思われている。1995年の兵庫県南部地震とそれによる阪神淡路大震災のころについての記憶は定かでないのだが、…

大発見? 漢数字の四・肆を「亖」と書いた実例

先日、漢数字の四・肆について触れたが、その後「大発見?」があったので報告する。 まず以下の記事をご覧いただきたい。 nlab.itmedia.co.jp それに対し拙ブログにて、こういう事例があることを紹介した。 japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com …

徳川期における不義密通、近親相姦(三親等内で関係をもった場合)の罪科と赦免について

徳川幕府は密通について、人妻と知っていた場合、知らずに通じていた場合、姉妹伯母姪との姦淫について次のように取り扱っていたようだ。 赦律(『徳川禁令考 別巻』295頁、創文社、1961年)によれば 拾五 密通又ハ強婬いたし候もの之事 一、人之女房と乍弁…

「新発見」光秀書状の問題点 これだけは押さえておきたい

今一度、この書状の論点をおさらいしておきたい。問題は以下の部分の解釈である。 尚以、急度御入洛義御馳走肝要候、委細為*上意、 可被仰出候条、不能巨細候、 如仰未申通候処ニ、*上意馳走被申付而、示給快然候、然而** 御入洛事、即御請申上候、被得…

村上水軍の新史料

毎日新聞2017年9月13日地方版に以下の記事が掲載された。例によって、写真の部分を翻刻してみる。 「来嶋落城」記す史料は初 「本能寺」後の情勢、注目の展示 今治・村上水軍博物館、来月10日まで /愛媛 「猶条々申合口上候、次来嶋落城之段定而不可有其…

蛤御門の変と新撰組に関する新史料

先々月、次のような報道がされた。 digital.asahi.com mainichi.jp www.sankei.com www.nikkei.com そこで、この写真の部分だけ読んでみることにした。 今暁丑刻比ゟ当村下宿々ゟ会津様非番之諸隊縁ニ螺貝吹立、甲冑著シ出陣、其騒動去月廿七日之如シ 昨十八…