日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

石田三成ら豊臣氏四奉行による村落支配に関する指示

関ヶ原」という映画が好評で盛り上がっているようだ。そこでスケベ心から(新規参入のブログを目立たせるにはミーハーであることが第一)しばらく石田三成関連の史料を読んでいくことにする。若い女性に人気があると仄聞するが、それらのご期待に添えるものかは保証の限りでない。

 

年代未詳であるが、文禄年間(1592~1596)のものと推定されている文書を見てみよう。引用は長浜市長浜城歴史博物館石田三成と湖北』14頁(2010年)による。闕字・平出は特に注意しない。

 

 (折紙)   

    為御意急度申入候

 

一、日用取之儀、従去年堅被成御停止候処、諸国之百姓等田畠を打捨罷上候ニ付て、被加御成敗、所々ニはた者ニかけさせられ候、然者向後日用取召仕候族於有之者、とらへ可申上候、則召仕候者之跡職、訴人に可被下候旨、被仰出候条可被得其意事、

 

一、知行それそれニ被下候処、人を不相抱故、日用を雇候儀、曲事ニ思召候事、

 

一、御代官・給人対百性(姓)、若非分之儀申懸、故を以百姓逐電仕ニをいてハ、以御糺明之上、代官・給人可為曲事之旨候、恐々謹言

              徳善院

  二月十五日           玄以(花押)

              長束大蔵

                  正家(花押)

              石田治部

                  三成(花押)

              増田右衛門尉

                  長盛(花押)

上坂八右衛門尉殿

      御宿所

 

(書き下し)

  御意として急度申し入れ候

 

一、日用取の儀、去年より堅く御停止(ゴチョウジ)なられ候ところ、諸国の百姓等田畠を打ち捨て罷り上げ候について、御成敗加えられ、所々に幡物(磔刑)にかけさせられ候、しからば向後日用取召し仕え候族これあるにおいては、とらへ申し上ぐべく候、則ち召し仕え候者の跡職、訴人に下さるべき候旨、仰せ出だされ候条其の意を得らるべきこと、

 

一、知行それぞれに下され候ところ、人を相抱えざる故、日用を雇い候儀、曲事に思し召し候事、

 

一、御代官・給人対百性(姓)、もし非分の儀申し懸け、故をもって百姓逐電つかまつるにおいては、御糺明の上をもって、代官・給人曲事たるべきの旨候、恐々謹言

 

*御意:秀吉の意思

*急度:必ず

*日用取:日傭取ともいう、日払いの武家奉公人

*幡物:はりつけ

*訴人:申し出た者

*跡職:残された土地など

*御代官:蔵入地(秀吉の直轄領)の代官

*給人:土地を与えられた者、大名から地頭クラスまで

*逐電:逃亡すること

 

(大意)

   (秀吉様の)お考えとして必ず伝えます

一、武家奉公人の件は、去年よりきびしく禁止されたところ、各地方の百姓らが田畑を捨てて上京してくることについて御成敗(「御」というのは秀吉への敬意を示している)を加えられ、様々なところで磔刑に処した。であるから、今後武家奉公人を召し使う者がいれば、捕縛しなさい。すなわち、召し使った者の土地などは訴人に下される旨を仰せになったので、その通りにしなさい

 

一、知行をそれぞれに下されたところ、人を抱えないので(家来を抱えないので)武家奉公人を雇うことは罪科とする

 

一、御代官(「御」は秀吉への敬意)や給人が百姓に対して、言いがかりをつけたことで百姓が逐電した場合には、事実を究明した上で代官や給人の罪科とすべきとのことである

 

 

このように、差出人、受取人のあるものを、古文書学では文書(もんじょ)と呼び、日記などの古記録、日本書紀などの編纂物と特別する。メディアでは、古文書・古記録・編纂物をすべて「古文書」と呼ぶが正確ではない。また「こぶんしょ」と読む方々もいらっしゃる。

 

折紙とは、半紙を横向きに置き、上下に折り、右上から書き始め、余白がなくなると左下から上下を反転させて書き続ける様式である。

ちなみに、書状、つまり手紙の多くはこの折紙を折り目に沿って切る「切紙」という様式を取ることが多い。先日言及した光秀の書状も切紙に当たる。

 

 

ここでは、豊臣五奉行のうち、前田玄以長束正家石田三成増田長盛の4人が連署して、上坂八右衛門尉に宛てている。 

 

 

 豊臣氏の四奉行が上坂氏に、村落支配はこうしなさいと伝えた文書である。秀吉は荘園毎に異なっていた升の大きさを統一し、また面積の単位も一新した。そのような文脈から、戦国期のような在地の多様で雑多なルールを排し、全国を統一したルールで支配しようとし、家臣に支配のあり方をも統一的ルールの下においた、とも理解できる文書である。

 

 

秀吉ははりつけが好きらしく、喧嘩に及んだ村人80人余を一度に磔刑に処したという。その眺めはいかばかりであっただろうか。映画「スパルタカス」のラストシーンを彷彿とさせるものがある。