日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

関ヶ原の戦後処理 慶長5年(1600)9月21日の「禁制」(岐阜県養老町指定文化財)

本日は、映画公開が近いといわれる公開されている関ヶ原の戦後処理に関する史料を読みたい。合戦が9月15日だから6日後に村々に宛てて出された触である。

 

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   禁制     

            哥村

            金谷村

            嶋田村

            直井村

            大塚村

一、軍勢甲乙人等濫妨狼藉之事、

一、放火之事、

一、妻子牛馬取之事、

右条々、堅令停止訖若有違犯之輩者、速可処厳科者也、仍下知如件、

 (朱印)慶長五年九月廿一日

 

(折封ウハ書)

御朱印            間宮彦次郎

                    奉之 」

 

(書き下し)

   禁制     

                (5ヶ村名略)

                                 一、軍勢・甲乙人ら濫妨(乱暴)・狼藉のこと、

一、放火の事、

一、妻子・牛馬これを取ること、

右の条々、堅く停止(ちょうじ)せしめおわんぬ、もし違犯(いぼん)の輩あらば、速かに厳科に処すべきものなり、よって下知、くだんのごとし、

 (朱印)慶長五年九月廿一日

(折封ウハ書)

御朱印     間宮彦次郎

            これを奉る」

(大意)

  (左にあげたことを)禁止する

                   (村名略)

一、軍勢や一般人が乱暴したり、狼藉をはたらく事。

一、放火する事、

一、妻子や牛馬を奪い取る事、

右の条文に記した事をかたく禁じたところである。もし背くものがあれば厳罰に処しなさい、以上ご下命の通りである

 

*甲乙人:年齢や身分を問わない全ての人。転じて、名をあげるまでもない一般庶民のことを指した。「甲」「乙」などの表現は、現代日本における「A」「B」や「ア」「イ」などと同じように特定の固有名詞に代わって表現するための記号に相当し、現代において不特定の人あるいは無関係な第三者を指すために「Aさん」「Bさん」「Cさん」と表現するところを、中世日本では「甲人」「乙人」「丙人」と表現した

 

*間宮彦次郎:徳川家康の家臣

 

なお、この文書の差出人は朱印の持ち主であり、宛所は5ヶ村ということになる。

 

 

禁制は戦時にその地域や寺社などの「安全」を保証することを示す文書である。大抵三ヶ条からなり、1.軍勢が乱暴しないこと2.放火はしないこと3.竹林の伐採はしないことを約束する場合が多い。しかしここでは妻子や牛馬の強奪を禁じている点が興味深い。

 

藤木久志氏の詳細な考察によれば、戦場では人身売買の対象となる人間、特に女性や子どもが戦いに紛れてさらわれていたことが指摘されている(参考文献は膨大なので割愛)。

 

また、牛馬は農耕や戦闘の必需品であり、当然高値で売れただろう。

 

家康は5ヶ村に対して、生命および財産の保証を約束することで、関ヶ原戦直後の不穏な空気を和らげ、村々の統治を平和裡に行おうとしたのではないだろうか。ただ、「生命の保証」とはいっても妻子限定であり、青壮年が兵役や労役に徴発される可能性までは否定できない。

 

関ヶ原合戦の政治史的位置については笠谷和比古氏の詳細な研究があるので、詳しくはそちらによられたいが(同『関ヶ原合戦講談社、1994年、また「徳川家康征夷大将軍任官と慶長期の国制」1992年 http://id.nii.ac.jp/1368/00000893/)、19日に小西行長、22日に石田三成が捕らえられていることから、21日は残党狩りのさなかであった。村人たちは相当の恐怖心を募らせて、間宮の文書を待っていたことだろう