日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

本能寺の変後の信長を「上様」「右大将家」と呼ぶ事例

岐阜市史史料編近世一』から本能寺の変後、信長がどう呼ばれていたかを知る手がかりとして、次の2点の史料を紹介したい(いずれも877頁)。なお文書の名称は同書にしたがった。

史料1

 

   神戸(織田)信孝禁制判物(折紙)

 

当寺之事、付門前、上様(織田信長)為御基(墓)所之上は、不混自余、諸役并非分之課役、付陣取・放火・竹木伐採事、令停止訖、若違乱之輩、速可成敗也、

   天正拾年         (神戸)

    十二月廿一日         信孝(花押)

       崇福寺

 

(書き下し)

当寺のこと、付けたり門前、上様御基所たるのうえは、自余に混ぜず、諸役ならびに非分の課役、つけたり陣取り・放火・竹木伐採のこと、停止せしめおわんぬ、もし違乱の輩は、速やかに成敗すべきなり、

 

 

*御基所:墓所

*自余に混ぜず:1603年成立の日葡辞書(土井忠生外編『邦訳日葡辞書』(1980年、岩波書店)によれば「他とは紛れようがない。並々でない。『―◦ヌ人』」とある。日葡辞書はちょうど家康が征夷大将軍に任じられた年にポルトガルで刊行されたもので、書き言葉、話し言葉も載せてあり、用例も載っているので当時の表現を知るには格好の辞書である。現在使われている俗語なども載っているので、パラパラめくると思わぬ発見をすることがあるので、お勧めだが、引きにくいのが難点である。

*:諸役ならびに非分の課役:諸役は年貢以外の公事、夫役など。非分の課役は正当でない臨時の課税。

 

崇福寺:信長以降の織田家菩提寺。詳しくはこちらを参照されたい。

織田信長公菩提所 岐阜 臨済宗妙心寺派 崇福寺

崇福寺 (岐阜市) - Wikiwand

  *天正10年12月21日:秀吉と対立していた信孝が降伏した翌日。

(大意)

当寺および門前について、信長様の御墓所であるので、格別の計らいで、諸役および非分の課役や陣取り、放火、竹木伐採のことを禁じたところである。もしこれに背く者がいたなら、速やかに成敗すべきである。

 

 

史料1によれば、「上様」とは信長以外に考えられない。そうすると「天正10年土橋平尉宛光秀書状」文中の「上意」「御入洛」が、一般的に足利将軍家を指すのか、信長を指すのか判断できなくなる。もちろん、光秀が信長、信忠父子を殺害した直後の段階と、清洲会議を経た12月段階で、足利将軍家の権威が低下しているとも考えられる。ただ、義昭が将軍職を辞したのは天正16年(1588)であり、この段階では将軍であった。

 

土橋宛書状を天正5年のものとするのか、10年と解釈すべきなのか容易ではない。

 

史料2

   池田元助寺領寄進状(折紙)

右大将家并信忠公為御弔、百弐拾弐貫五百文、新儀令寄進候、無懈怠、御看経肝要候、恐惶謹言

   天正十一年        紀伊守(池田)

    九月十七日         元助(花押)

       崇福寺方丈

          侍者御中

 

(書き下し)

右大将家ならびに信忠公御弔として、百二十二貫五百文、新儀に寄進せしめ候、懈怠なく、ご看経肝要に候、恐惶謹言、

 

(大意)

信長様ならびに信忠さまのお弔いのため(の費用を賄うための土地として)122貫500文をあらたに寄進させました。懈怠なく、読経に励むことが重要です。

 

 

*右大将:右近衛大将のこと。天正3年(1575)義昭を京都から追放後、信長は権大納言および右近衛大将に任官された。このとき義昭は近衛中将だった。

近衛大将唐名は「幕府」「幕下」「柳営」「羽林大将軍」「親衛大将軍」「虎牙大将軍」。ちなみに「黄門」は中納言唐名

また、御成敗式目中に見える「右大将家之御時」は源頼朝を指す。

 

 

*看経(かんぎん):「かんきょう」とも読み,禅宗では「かんきん」と読む。経典を黙読すること。のちには,諷経 (ふぎん) ,読経 (どきょう) と同義となった。また経典を研究するために読む意味でも用いられる。

 

*恐惶謹言:「おそれ謹んで申し上げる」の意。書状などの末尾に来る決まり文句。

 

紀伊守元助:1559?~1584 勝九郎、紀伊守。諱が元助。長久手の陣にて父池田恒興とももに討ち死。

 

*方丈:1丈 (約 3m) 四方の部屋の意で,禅宗寺院の住持や長老の居室をさす。『維摩経』に,維摩居士の室が1丈四方の広さであったという故事に由来する。転じて住職をも意味する。さらに一般的に師の尊称として用いられた。

 

文書中には、人名が明確に書かれているわけではなく、受領名や官途名等の役職で書かれることが多いため、ときには解釈が分かれる場合もある。たとえば太閤とは本来関白を退いた者に対する尊称であったが、秀吉以降「太閤」といえば一般的に秀吉を指すことになった例がわかりやすいと思う。

 

また「公儀」などもその意味するところを読み取ることは難しい。