日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

身分としての「奉公人」の存在を示す人掃令

 

前回の記事で藤井讓治氏の、豊臣期固有の身分としての「奉公人」とする見解を紹介した。

 

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

 

その論拠が「人掃令」として知られる法令である。ただし、年代比定は天正19年ではなく、同20年とする立場をとられている。

 

 

      安国寺恵瓊佐世元嘉連署事書状

 

  急度申候、
一、従当(闕字)関白樣*1六十六ヶ国へ人掃之儀被仰出候之事、
    付、中国御拝領分ニ岡本次郎左衛門、小寺清六被成御下、廣嶋*2御逗留之事、
一、家数人数男女老若共ニ一村切ニ可被書付事、
    付、奉公人ハ奉公人、町人ハ町人、百姓者百姓、一所ニ可書出事、但書立案文別紙遣之候、
一、他国之者、他郷之者、不可有許容事、
    付、請懸り手*3有之ハ、其者不可有聊爾之由、血判之神文を以可被預ケ置事、
    付、他国衆数年何たる子細にて居住と可書載候、去年七月以来上衆人を可憑と申候共、不可有許容事、
一、廣嶋私宅留守代、并在々村々ニ被置候代官衆之書付、至佐与*4ニ可被指出事、
一、御朱印之御ケ条*5、并地下究之起請文進之候、令引合無相違様ニ可被仰付事、
右之究於御延引者、彼御両人直ニ其地罷越、可致其究之由、一日も早々家数人数帳ニ御作候て可有御出候、於御緩者、其地下/\へ可為御入部之由候之間、為御届こま/\申達候、已上、
    天正十九年*6
       三月六日    安国寺
               佐世与三左衛門(花押)
  (押紙)*7
  「広家*8奉行」
     粟屋彦右衛門尉殿
     桂   左馬助殿

 

            『大日本古文書 吉川家文書之二』975号文書

 

(書き下し文)

    
一、当関白樣より六十六ヶ国へ人掃の儀仰せ出され候のこと、
    つけたり、中国御拝領分に岡本次郎左衛門、小寺清六御下しなられ、廣嶋御逗留のこと、
一、家数・人数、男女老若共に一村切に書き付けらるべきこと、
    つけたり、奉公人は奉公人、町人は町人、百姓は百姓、一所に書き出すべきこと、ただし書き立て案文、別紙これをつかわし候、
一、他国の者、他郷の者、許容あるべからざること、
    つけたり、請懸り手これあらば、その者いささかもしかるべからざるのよし、血判の神文をもって預け置かるべきこと、
    つけたり、他国衆、数年なんたる子細にて居住と書き載せべく候、去年七月*9以来上*10衆人*11をたのむべきと申し候とも、許容あるべからざること、
一、広島私宅留守代、ならびに在々村々に置かれ候代官衆の書付、佐与にいたり指し出さるべきこと、
一、御朱印の御箇条、ならびに地下究めの起請文これをたてまつり候、引き合わせしめ相違なきように仰せ付けらるべきこと、
右の究めご延引においては、かのご両人じきにその地罷り越し、その究めいたすべきのよし、一日も早々家数人数帳にお作り候て御出しあるべく候、お緩みにおいては、その地下地下へご入部たるべきのよし候のあいだ、お届けさせこまごま申し達し候、已上、

   急度申し候、

 

(大意)

  

一、秀次樣より六十六ヶ国へ人掃が命じられました。
  つけたり、中国領の分へ岡本次郎左衛門、小寺清六両名を遣わされ、広島に滞在することになりました。
一、家数・人数、男女老若ともに一村ごとに書き出されるようにしてください。
  つけたり、奉公人は奉公人、町人は町人、百姓は百姓、まとめて一箇所に書き出すべきこと。ただし書き立て案文は別紙にして渡すこととする。
一、他国の者、他郷の者、その村々に住まわせることは認めない。
  つけたり、保証人がいるならば、その者が胡乱なるものなら、血判の起請文にて村々に置くこと、
  つけたり、他国衆は、何ヶ年、これこれこういう事情で居住していると帳面に書き載せること。天正19年7月以後は衆人監視とするといっても、許容しない。
一、広島私宅の留守居、ならびに在々村々に任命した代官衆の名前を、佐世元嘉に差し出させること。
一、御朱印の御箇条、ならびに村々で書き記した起請文を差し出させ、突き合わせた上で相違がないように命じられるべきこと。
右の決まりにつき遅延があったなら、岡本・小寺の両人が直接その村へ出張り、その決まり通りするようにとのこと、一日も早々家数人数帳を作成し差し出すように。怠慢が見られる場合は、その地下地下へ立ち入るべきということなので、詳細申しました。以上。

   しっかりと伝えました。

 

 

 この文書は毛利家家臣の安国寺恵瓊、佐世元嘉が吉川広家の奉行粟屋・桂両名に宛てたものである。

 

下線部に見られるように「奉公人は奉公人」「町人は町人」「百姓は百姓」としてそれぞれ帳面に書き出すように命じている。この記述から「奉公人」という身分が存在したと藤井氏は主張される。

 

兵農分離の「兵」に奉公人を加えるべきか否かは議論の分かれるところであるが、「侍」が武家奉公人であるという理解は共有されている。

 

       

*1:豊臣秀次

*2:毛利輝元天正19年1月に郡山城より入城

*3:請人、保証人

*4:佐世元嘉

*5:天正20年1月付豊臣秀次朱印状、「浅野家文書」260号文書

*6:天正20年

*7:「おうし」、付箋とことなり、全面をのり付けした貼紙

*8:吉川広家

*9:天正19年7月

*10:のち、その後

*11:大勢の人