急度被仰遣候、高麗へ召連候舩頭・かこ*1共相煩、過半死之由申越候、然者、其方浦〻ニ相残候かこ共悉相改、かミ*2ハ六十下ハ十五を限、可罷渡之旨、堅申付、相副奉行*3に可差越候、自名護屋*4舩を被仰付可被遣候、無由断可申付候、此時候間、不罷出族、至後日可被加御成敗*5候、次自高麗為用所差戻候舟、早〻罷渡候様ニ、是又堅可申付候、猶浅野弾正少弼*6、長束大蔵大輔*7、木下半介*8可申候也、
二月五日(秀吉朱印)
嶋津修理大夫*9とのへ
「島津家文書之一」 369号文書、361頁
(書き下し文)
きっと仰せ遣わされ候、高麗へ召し連れ候舩頭・水主ともあい煩い、過半死のよし申し越し候、しからば、その方浦〻にあい残り候水主どもことごとくあい改め、上は六十下は十五を限り、罷り渡るべきの旨、堅く申し付け、奉行をあい副え差し越すべく候、名護屋より舩を仰せ付けられ遣わさるべく候、由断なく申し付くべく候、この時候あいだ、罷り出でざる族、後日にいたり御成敗加えらるべく候、次に高麗より用所のため差し戻し候舟、早〻罷り渡り候ように、これまた堅く申し付くべく候、なお浅野弾正少弼、長束大蔵大輔、木下半介申すべく候なり、
(大意)
高麗へ連れて行った船頭・水主たちが病気になり、その大半が死亡したと申し出てきた件のこと。島津家領国中の浦々に残っている水夫の人数をすべて調べ上げ、上は60歳、下は15歳までの者を渡海させるよう命じ、奉行に連れだって出頭させるようにしなさい。名護屋からの船はこちらで手配しますので、油断のないようにしなさい。このときにかぎって、出頭しない者がいたならば、後日成敗を加えるものです。次に、高麗から用事のため戻ってきた船はすぐにまた高麗へ渡海するよう、これまた厳命すること。詳しくは浅野長政、長束正家、木下吉隆が口頭で述べます。
前年の天正20年(12月8日「文禄」に改元)に渡海させた非戦闘員である船頭や水主の多くが病死した。在陣中の島津義弘にとって補給路を断たれたわけで、秀吉にとっても見過ごすことのできない事態であった。そこで国許にいた義久に領国中の浦々の船頭・水主をすべて調べ上げ、15歳から60歳までの者を渡海させるよう命じたわけである。秀吉の船員動員は渡海だけでなく「其方分国中川渡舟事、集置入念申付、出陣人馬無滞相越候様」*10とあるように、内水交通にも及んだ。最前線から銃後にいたるまで総動員されたのである。石高を基準とした軍役体系により、全国土の大名から百姓*11以下の者までがひとつの兵営に組み込まれたといってもよい*12。注意したいのはこの文書に書かれている内容は、義弘から報告があり、その対応を義久に命じた時点での途中経過にすぎず、文禄の役が島津領国中にもたらした結果でないことである。戦況は刻々と変化しており、当然対応に時差が生じる。
本来渡海する船は大名が負担すべき軍役に含まれていたが、秀吉はこの時だけ船を用意させると義久に伝えている。島津家の台所事情は困窮をきわめており、例外的に認めたのであろう。また下線部に見られるように出頭を拒む船頭や水主もいたようで、在地には中央政権へ抵抗する者もいたようだ。前年の梅北国兼による一揆の衝撃の大きさがうかがえる。また、一時帰国している船も早々に追い立てていることから、生存していた船員たちにも厭戦気分が広がっていたのかもしれない。
15~60歳を青壮年扱いする規定は当時よく見られたが、これは事実上終身現役制を意味していた*13。また年貢諸役を納めるべき浦々に残された労働力は女性と子どものみとなる点も見逃せない。天正20年1月秀次により発せられた掟書*14で陣夫役として徴発された者の田畠を、郷村の責任において耕作させるように各大名に命じている。とくに荒廃田とならないよう注意していた。こうした事態が島津領国の漁村を襲ったわけである。秀吉の対外戦争が総力戦だったことを示す好例であろう。
*1:水主、船頭以外の船員
*2:上
*3:「豊臣秀吉文書集五」3976号文書によれば「渡海船奉行」として早川長政、毛利高政、毛利重政が任じられている。また、3977号などに「舟奉行」として彼ら3名のほか石田三成、大谷吉継、岡本良勝、牧村利貞ら10名が見える
*4:肥前国松浦郡
*5:「御」は秀吉自身への敬意
*6:長政
*7:正家
*8:吉隆
*9:義久
*10:毛利輝元宛・小早川隆景宛、3951・3952号文書
*11:身分はそこに所属する社会集団が決めるという理解が近世史では有力である。また、村人だから即「百姓」身分というわけでもない
*12:高木昭作『日本近世国家史の研究』1990年
*13:日本人の平均寿命が60歳を超えたのは戦後である。また勤め人との比較に過ぎず参考程度だが、戦後の定年が55歳、1980年代に60歳に延びたことを考慮しても、事実上の終身現役制だったといえる
*14:「大日本古文書 吉川家文書之一」125号、92~93頁