<史料1>
長野三郎左衛門尉*1・原田五郎*2・草野中務大輔*3両三人事、至肥後国被差遣、替地被仰付候、然而為右入替、於筑前国内八百町城十郎太郎*4、五百町伯耆左兵衛尉*5、合千参百町事相渡之、則可令随逐*6候也、
天正十六
八月十二日*7 (朱印)
羽柴筑前侍従とのへ*8
(三、2591号)(書き下し文)長野三郎左衛門尉・原田五郎・草野中務大輔両三人のこと、肥後国に至り差し遣わされ、替地仰せ付けられ候、しかれども右入れ替えとして、筑前国内八百町城十郎太郎、五百町伯耆左兵衛尉、合せて千三百町のことこれを相渡し、すなわち随逐せしむべく候なり、(大意)長野鎮辰・原田信種・草野鎮永三名については、肥後国に替地を仰せ付けられたところである。その一方右の代替として、筑前国内のうち800町を城久基に、500町を名和顕孝に、都合1300町与え、そなたに付き従うようにしなさい。
肥後から筑前に国替えされた城久基と名和顕孝の寄親を、同じく筑前を分国とする大名である小早川隆景の軍事指揮下に入るよう命じた朱印状である。
<史料2>
於筑前国為替地五百町事、被宛行之訖、全令領知、則羽柴筑前侍従*9ニ可随逐候也、
天正十六
八月十二日 (朱印)
伯耆左兵衛尉*10
とのへ
(三、2595号)(書き下し文)筑前国において替地として五百町のこと、これを宛て行われおわんぬ、まったく領知せしめ、すなわち羽柴筑前侍従に随逐すべく候なり、(大意)筑前国に替地として500町充てがうものである。みな領知し、小早川隆景に付き従うように。
史料2は史料1で隆景に命じた内容を名和顕孝にも伝えたことを示す文書である。知行地の替地として500町が筑前国に充て行われている。注意したいのは主従関係はあくまで秀吉との間に結ばれ、戦時にのみ隆景の指揮下に入るという点である。
また鎮永ら三名に対して「在隈本*11致し加藤主計頭に合宿せしめ、忠節を抽くべく」と命じた文書も顕孝宛と同様に発せられており、熊本に集住することを求められ、在地性を剥奪された。ただ、それらに対応する清正宛の文書は残されていないため、この国替えに清正も携わっていたのか、それとも隆景のみによって行われたのかは不明である。
以上文書2591~2595号の関係をまとめると下図のようになる。
Fig. 天正16年8月12日領知充行状群の関係図
土地の単位が「石高」でなく面積の「町」で表されていることにも注意したい。秀吉による検地が行われておらず、旧来の、南九州の慣行に依らざるを得なかったためであろう。