日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正14年5月13日太田資正宛豊臣秀吉朱印状写

 

 

三月十四日書状加披見候、家康*1事種々依懇望、誓紙*2・人質等堅相卜*3令赦免候、然者東国儀近日差遣使者、境目等之儀可相立*4候、若相滞族有之者、急度可申付候之間、可被得其意候、何*5不図為富士一見可相越之条、猶其刻可申候也、

   五月十三日*6  (朱印影)

       三楽斉*7*8

 

(三、1889号)

 

 (書き下し文)

 

三月十四日書状披見を加え候、家康こと種々懇望により、誓紙・人質など堅く相卜し赦免せしめ候、しからば東国儀近日使者を差し遣わし、境目などの儀相立つべく候、もし相滞る族これあらば、きっと申し付くべく候のあいだ、その意をえらるべく候、いずれもふと富士一見のため相越すべくの条、なおその刻申すべく候なり、

 

(大意)

 

 三月十四日付の書状拝読しました。家康が誓紙と人質を差し出すと懇願してきたので熟慮の末赦免することとしました。そういうことですので関東の境目について近日中に使者を派遣し定めることとします。もし抵抗する者がいれば制圧するのであらかじめお含み置きください。いずれにしても冨士山を一目見たくそちらへ出向きますので詳しくはそのときに申し上げます。

 

 

Fig. 常陸国新治郡片野城と武蔵国埼玉郡岩付城

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                   『日本歴史地名大系 茨城県』より作成


 5月25日付白川義親宛朱印状*9、および塩谷弥六宛朱印状写*10によれば使者として山上道牛(道及)、境目を定める検使として増田長盛・石田三成が派遣されている。

 

 

*1:徳川

*2:起請文

*3:ボクシ、うらなう・判断して定める

*4:定める

*5:イズレモ、いずれにしても

*6:天正14年

*7:

*8:太田資正、もと武蔵国岩付城主、このころは常陸片野城主。反北条。下図参照

*9:1893号

*10:1894号