⑦一、在〻質人*1出置替之時*2礼儀に立寄候者*3、上使ハ不及申ニ百性まて為可曲事、付りふしん*4道具・薪等申付之時ハ、人夫数ハ百石二付而二人ツヽ隈本へ持せ可越候、右条〻相背者候者可令成敗者也、仍下知如件*5、
天正拾六年後*6五月六日 加藤主計頭(花押)
北里三河入道殿*7
同 左馬とのへ*8
(『熊本県史料 中世篇第一』509~510頁)(書き下し文)
⑦一、在〻質人出置き替えの時礼儀に立ち寄り候は、上使は申すに及ばず百性まて曲たるべきこと、つけたり普請道具・薪など申し付けの時は、人夫数は百石について二人ずつ隈本へ持たせ越すべく候、右条〻相背く者にそうらわば成敗せしむべくものなり、よって下知くだんのごとし、
(大意)
⑦一、各郷村の奉公人出替わりのさいに礼銭や礼物などを持参して訪問することは、相手が使者はもちろん百姓であろうとも禁ずる。つけたり、隈本への人足に普請道具や薪などを持参するように命じるさいは、100石につき2人までとする。以上の箇条に背いた者は厳罰に処する。以上が秀吉様の下知である。
前後の脈絡に関係なく「つけたり」が付されるので意味がやや取りにくい。
「質人」は通常は人質を意味するが、ここでは「人質奉公」や「身売り奉公」と呼ばれる奉公人を指す。これらは、借金の方に子女を差し出し、元金を返すまで無償で働かせ、それを利足(当時利息を「利足」と書いた。もちろん複利である)としていた。「荒子」という中世的な語彙が阿蘇郡で「農家の下男、作男」を意味する言葉として今も使われている。同様に「名子」も芦北郡や天草郡では「小作人」を、球磨郡では「主家に住み込みの家族同様の作男」を意味していることから、そうした農業の大規模経営が最近(戦後の農地改革)まで続いていたことをうかがわせる*9。人身売買の例としてよく知られるのは前年のウォール街の株価大暴落に端を発した1930年の昭和恐慌時、東北を中心としてなされた「娘の身売り」だろう。「アメリカがくしゃみをすれば日本は肺炎になる」とは映画「あゝ野麦峠」のセリフであるが、そのアメリカが肺炎に罹ってしまった*10ので世界中が大混乱に陥ったことは周知の通りである。
Fig.1 「名子」、「荒子」分布
Fig.2 小経営と大経営
ただしここでいう「質人」は本来の「人質奉公」という人身の年季売に限らず、奉公人(雇傭人)全般を指す総称と考える方がよさそうである。
秀吉や清正はこうした在地の「付け届け」という社会的慣行を否定したかったようだ。領主宅へ百姓が金品を持参し、また領主から接待を受けることが中世社会では見られたが、そうした人格的関係を清算しようとしたのかもしれない。
「つけたり」部分は⑥のやはり「つけたり」にある隈本への詰夫について定めているが、普請道具や薪などをみずから賄う者は100石につき2名までとする。⑥を踏まえると10石に1名詰夫を出し、100石分つまり10名につき2名は道具や薪を自弁としたようだ。この詰夫についての⑥、⑦とも「つけたり」としていることから書き上げたあとに加筆した可能性もあり、意味が取りにくい。なお当時は条文の整合性より「3、5、7」といった縁起のよい箇条数となることを重視していたためであろう。今から見れば本末転倒だが、吉凶を重視する当時にあっては合理的であった。
次回から秀吉文書集にもどることにしたい。
*1:「人質奉公人」と呼ばれる奉公人
*2:年季の明けた奉公人が入れ替わる季節
*3:礼銭や礼物を持参して訪問すること、礼参り。暴力による報復を意味する「お礼参り」ではない
*4:普請
*5:以上が秀吉様の下知です。つまり清正ではなく秀吉の意を奉じて伝えた、という意味。実際は清正独自の文言がかなり加えられているが
*6:閏
*7:政義
*8:重義カ
*9:図1,図2参照
*10:食糧の配給に長蛇の列ができる街の光景や、失業した夫のかわりに夜間ダンスホールで小銭を稼ぐ妻の姿がドラマ「コールドケース」で描かれた。また妻が夫に、ニューディール政策の代名詞であるTVA(テネシー川開発公社)の求人には応募したのかと詰め寄るシーンもある