刀狩令により郷村は武装解除されたという俗説は、いまだ根強いがそれは本当だろうか。史料的にはそれに反する事例に事欠かない。
先日、摂津国武庫郡鳴尾村と瓦林村の水問答の裁定に、前田玄以、増田長盛、長束正家が連署して立ち会った旨の文書を紹介した。
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その年には以下のような凄惨な光景が見られたという。
「多聞院日記」天正20年10月23日条にはこうある。192コマ目
国立国会図書館デジタルコレクション - 多聞院日記. 第4巻(巻32-巻40)
一、摂州ノ百姓共去夏水事喧嘩*1ノ衆八十三人ハタ物*2ニ被上了ト、天下悉ケンクワ御停止ノ処、曲事ノ故也ト云々、十三才ノ童部父ノ命ニ代テハタ物ニ上了ト、哀事、抑孝行ノ儀也、末世不相応々々、
(書き下し文)
ひとつ、摂州の百姓ども去る夏の水事喧嘩の衆、八十三人ハタ物に上げられおわんぬと、天下ことごとくケンカ御停止のところ、曲事のゆえなりとうんぬん、十三才の童部(わらわべ)父の命に代りてハタ物にあげおわんぬと、かなしきこと、そもそも孝行の儀なり、末世に不相応、不相応
(大意)
ひとつ、摂津国の百姓衆のうち、昨年夏の水争いで私戦に参加した83名が磔刑に処せられたといううわさだ。日本全国「喧嘩御停止」とした方針に背いたからだという。13歳の子どもが父親に代わってはりつけにされたという、悲しいできごとだ。さて、これはまことに親孝行なことだ。今は末世だというのに、それに似合わず感心感心なことだ。
百姓たちは中世の習いである自力救済の原則にのっとり、村同士の合戦に及んだのだが、秀吉が「喧嘩御停止」という方針を定め、それに背いたかどで83名をはりつけにしたという。すでに刀狩令が発せられて4年経つが、郷村に弓鑓鉄炮が残されたことは、慶長14年2月2日徳川秀忠黒印状写に「山問答*3・水問答*4につき弓・鑓・鉄炮にて互いに喧嘩致し候者あらば、その一郷成敗いたすべきこと」*5とあることからも確認できる。この自力による争いは昭和前期まで続いた。
千葉県の九十九里沿岸では次のような事件も起きたという。
明治27年、栗山川(くりやまがわ)の水をめぐって両岸の農民2百数十名が、①手に鍬、鋤、竹やり、日本刀、仕込杖などを持ち②白装束を着て激突、不幸にも2人の犠牲者を出しています。
また、昭和8年の干ばつでは、ある農民が水利組合長を刀で切りつけたり、農民が大勢押しかけ村長宅から米を強奪したりというような話も残っています。
下線部①で日本刀や仕込み杖といった武器を持参したとあるが、印象的なのは②の「白装束を着て」という部分である。死を覚悟しているようで、こちらの方が一層不気味である。
ちなみにこの時の百姓衆を祀ったものが、上記記事中の地図にある「鳴尾村義民碑」である。
この部分、現在では常識的知識に属する「惣無事令」*6のプロトタイプである「喧嘩停止令」が発せられたことを示すものとして、1980年代から急速に脚光を浴びるようになった。
中世末期の戦国期は、戦国大名はじめ地域権力を形成する国人=国衆らがさかんに地域のもめ事を調停する役割を担うようになってきた。自力救済ではなく、上級権力による裁定という方向性に向かっていたわけである。それを集大成したのが秀吉の惣無事という思想であり、徳川権力にも継承された「近世的なるもの」である。
時代劇でよく見る「仇討ち」も上級権力による承認なしに行った場合は私闘とみなされた。承認されるということは、上級権力の代執行として行われたということであり、もはや自力救済は形だけということでもある。
戦国期から近世にかけて紛争の解決を自力救済に頼らず、公権力に委ねるようになるという趨勢はあるものの、実態としては紆余曲折を経て、長い時間をかけて移行していった点では例外でない。首都を変えたり、改元したから新しい社会が到来するという保証はどこにもないのである。