一、京中銀地子*1五千五百三十両余、可為禁中御料所*2之事、
一、米地子*3八百石之内、三百石院御所*4・五百石六宮関白領*5、
右如件、
若御奉公*8懈怠*9之輩於有之者、為叡慮*10御計*11被成候様に可被仰上者也、
天正十六年卯月十五日 秀吉
菊亭殿*12
勧修寺殿*13
中山殿*14
(三、2460号)(書き下し文)一、京中銀地子五千五百三十両余、禁中御料所たるべくのこと、
一、米地子八百石のうち、三百石院御所・五百石六宮関白領、
一、江州高島郡において八千石、諸門跡・諸公家衆へこれをまいらせ、
右くだんのごとし、
もし御奉公懈怠の輩これあるにおいては、叡慮としてお計らいなられ候ように仰せ上げらるべきものなり、
(大意)一、京中の地子銀5,530両ほど、天皇領とする。一、米納による地子800石のうち、500石を正親町上皇へ、800石を六宮智仁親王領とする。一、近江国高島郡より8,000石、諸門跡および諸公家衆へこれを進上する。右の通りである。もし朝廷への奉公を怠る者がいたならば、天皇にお伺いを立てるものである。
Fig. 近江国高島郡周辺図
下線部にあるように、この文書と同日付で「聚楽行幸」を理由に近江高島郡で合計8,000石、公家宛に知行地を進上している。「令宛行畢」(宛てがいせしめおわんぬ)とあるので事実上の知行充行と考えてよいだろう。
Table. 天正16年4月15日公家への知行充行